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高等学校の思い出話 [でもでも教師日記]

30年も前の地方の公立進学校の想い出話をしたい。
 
この学校、いやなところも多々あったが、良い学校だった。なにより良いのは「国公立合格がすべて」ということで、評価基準が学校の外に毅然として存在していたことである。学年団の教師は「うちの学年は何人合格させたか」を競い、生徒は受験だけを目標に頑張り、町の人たちは「あの学年は進学実績のある先生が揃っている」という評価をする。
 
通知簿の成績なんて誰も気にしない。成績は5でも3でも良いのである。京大も神大も入試の得点が全てで、高校の成績がオール5で当日の得点が600点の受験生より、高校の成績がオール3で当日の成績が601点の受験生の方が合格するルールになっていた(この入試のルールは公平で正しい。「人柄より偏差値」である)。
 
授業中に寝ていようが、内職をしようが、それは自己責任、すべては入試が判定をくだす。スヤスヤお眠りしている生徒の傍で「昨晩頑張ったので眠いんでしょうね」と教師は言い、生徒は笑って「ほっといて授業を進めましょう」というカラッとした校風だった。
 
「本校は灰スクールではない、真っ黒である。君たちの高校生活に楽しいことは何もない」と学年主任は広言し「こんな学校にいたってしょうがないから、さっさと大学に進学しよう」と生徒は受験勉強にいそしんでいた。
 
これは、私が教師として勤めていた1980年代のことで、私が生徒であった1960年代は成績順にクラスが編成されていて模試の成績が廊下に張り出されていた。その後、人権教育の高まりとともに掲示はなくなったのだが、1980年代になっても「スポーツの一位は表彰するのに、勉強の一番を掲示するのが何故悪い」と息巻く古参教師は多かった。
 
私の生徒時代でもそれ以前に比べれば、ずいぶんマシになっていたらしく、1960年頃は「アホはカシコの邪魔すな」という雰囲気だったらしい。
 
それでも、ナンダンカンダ言っても、この学校の卒業生はこの学校が好きである。「アホはカシコの邪魔すな」と言われたことがあると、自称アホであったという先輩が嬉しそうに私に語ってくれた。
 
受験で勝ちたいという気持ちは教師・生徒が共有していて、戦場は大学入試、敵は他校生なのだから、基本的に学校の構成員は全員がウィンウィンの関係にあったからである。
 
この学校、学年ごとに校舎が分かれていた。校則も細かいところは校舎によって違うのである。A学年主任曰く「始業の5分前の予鈴までに登校しろ」、B学年主任曰く「予鈴は予鈴、本鈴までに教室に入ればよいのだ」。
 
二年生が予鈴にあわせて教室へと走るそばを、一年生がダラダラ歩いて行く。ついに、二年の生徒代表が「一年と二年で始業が異なるのはおかしい」と抗議した。A学年主任曰く「それが人生だ」、生徒代表は深くうなずく「なるほど、それが人生というものか」
 
この学校に教師として勤めて印象に残っているのは「統一見解は?」なる愚問を聞いたことがないことだ。その後、神戸に転勤してきたが「学校としての統一見解を」と質問する教師が多いことに辟易している。そんなことくらい自分の頭で考えろよ。高校生でも考えるぞ。
 
私が担任していた生徒は「あの先生の授業を聞くまではわかっているんですけど、授業を聞くとわからなくなるので聞かないようにしているんです」という名言を吐いた。
 
担任として返す言葉もなかったが、その先生が授業をしたからと言ってクラスの点が悪いわけではないのである。きっと賢い生徒たちは自助努力でカバーしていたのだろう。授業はだめでも自分で何とかしなくっちゃ!と自覚させたのなら、それもまた教育なのかも知れない。
 
学校なんて、生徒さえよければどうにでもなるという話である。
 
この学校のことを語ると楽しい。私にとっては、とても面白い学校だった。
 
今でも、あのバカバカしいほどのアッケラカンさは続いているのだろうか?それとも、普通の学校に成り下がってしまったのだろうか?

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