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若狭野陣屋(浅野陣屋) [旗本浅野家若狭野陣屋]

 
 
若狭野陣屋
 
旗本三千石浅野家の若狭野陣屋。後方の桜の辺りまでが陣屋跡です。
 
前方の建物は札座。江戸時代後期、藩札(札切手)の発行を含む所領統治の役所として建てられました。江戸時代後期、各地の旗本が家政改革を行いました。若狭野浅野家も1822年に藩札を発行するなど家政改革に取り組んでいます。
 
江戸時代、一万石を超える大名が200家、3000石~5000石の大身旗本が200家ありました。大名の城跡や陣屋跡は多くが保存されていますが、大身旗本の陣屋跡で残るものはそれほど多くはありません。
 
若狭野陣屋は敷地全体が残っているうえ、江戸時代後期の建築物(札座)が残っています。旗本陣屋の陣屋門は各地に残りやすいのですが、札奉行が政務をとった役所として使われた建築物は全国でこれ一つかも知れません。地味な建物ですが、歴史的に貴重なものです。
 
若狭野陣屋
  
札座の西に、かつての陣屋門に続く道があります。左手の広場は年貢を納める場所でした。
 
江戸時代、大身旗本は江戸に住み幕府で奉行職などに就きます。当主が所領に帰ることは稀で、在地の家臣が統治にあたりました。若狭野陣屋には、北部に御殿屋敷と家老屋敷があり、江戸時代後期に南部の札座が増設されています。

若狭野陣屋
 
陣屋門跡を通り、陣屋中心部に着きました。ここには二棟の建物がありました。明治維新で当主の浅野長発が土着したとき、御殿屋敷を改築し家老屋敷を建て替えています。
 
しかし、明治30年代に浅野家は陣屋を去ります。1942(S17)年、陣屋の北半分は浅野家から若狭野地区に寄付されました。御殿屋敷跡は広場になり、北辺に稲荷神社・須賀神社・薬師堂があります。中央は若狭野須賀神社で、昭和前期に陣屋内に移転してきました。薬師堂も移転してきたものです。
 
若狭野陣屋
 
左は稲荷神社。稲荷神社は浅野家の守護神で、江戸時代から若狭野陣屋のなかに祀られていました。中央は須賀神社と絵馬堂。右手に薬師堂があります。薬師堂は、和泉式部が小式部内侍を探して若狭野に来たときに残したという守本尊を祭っています。
 
若狭野陣屋の推移
 
旗本浅野家が成立した頃の陣屋は、紫の位置にあり、小規模なものでした。本家の赤穂藩が若狭野を含めて統治していましたから、陣屋は長屋がある程度でよかったのです。
 
1701年、浅野内匠頭の刃傷事件で浅野赤穂藩は断絶します。旗本浅野家は所領を統治するために陣屋を白四角の位置に移転し拡張しました。
 
19世紀になると家政改革が必要となり、藩札の発行など統治の強化を図ります。藩札の札元は大坂天王寺屋でした。陣屋南部、赤丸の場所に札座が建築され、札座の向かいに天王寺屋の屋敷が建てられたと推定します。
 
浅野赤穂藩が断絶したとき、赤穂藩江戸屋敷から旗本浅野家が受け継いだ文書群(浅野隼人家文書)が2006年に発見され、研究が進んでいます。左は江戸時代中期、右は明治初期の若狭野陣屋の絵図です。
 
水色の丸が御殿屋敷、赤色の丸が札座です。江戸時代後期から明治維新にかけて陣屋が拡張されたことがわかります。
  
若狭野陣屋

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