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塾や予備校は学校に勝る [700文字のエッセイ]

久しぶりに面白い本を読んだ。書名は「大学教育の変貌を考える」
 
塾や予備校は学校よりも有効に機能する。保護者や生徒はそれを本能的に知っているから学校より塾や予備校を頼りにする。その理由を理論的につきつめたのが、本書の第四章「褒める教育と叱る教育のパラドックス」である。
 
学園ドラマでは「金八先生」も「GTO」も教室外で先生が活躍する。教師の本務は授業であるにもかかわらず、彼らは授業をしない。教師の本務は授業を受けたい生徒に授業で学力をつけることなので、教師は金八先生になどなりたくないのである。
 
「出席管理だの私語への注意だの生活指導だのは、スクールポリスなり学校監督官なりにやっていただきたい。そもそも講演会を開催しておいて、受付業務や迷惑行為をする客への対応まで講演者に任せる阿呆な主催者が、どこの世の中にいるだろうか」という本書の一節は、教師の本音である。
 
ただ、教室に生徒を入れ、学習意欲を高めてやることが教師の本務であると思っている教師が少数ではあるが存在する。また、教育行政は教室に生徒を入れて学習意欲を高めてやることが教育であるという建前をとっている。
 
少数派の理念や教育行政の建前と教師多数派の本音は矛盾をきたし、その矛盾をついて塾や予備校が信頼を得てきたのが日本の教育の現状である。
 
というような現実を見据えたうえで、本書はノン・エリートの高等教育や中等教育を論じる。本書の著者は大学進学率は高い方がよいという立場に立つが故に、ノン・エリートの教育を真剣に考察している。教育論のなかでは秀逸の一冊だと思う。

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古墳時代の巨石信仰 [社会人のための高校日本史]

古墳時代は巨石信仰の時代でもありました。人々は巨大な岩に神が宿ると考え、ご神体として祀ったのです。
 
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磐座神社の北に並ぶ高厳山・権現山・龍王山を矢野の神山と呼びます。
 
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矢野荘の鎮守磐座神社、境内に光座石があります。
 
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羅漢渓谷、寄り添う巨岩の間を登っていくと岩窟に瓜生の羅漢石仏があります。百済から渡来した恵便・恵聡が刻み、秦河勝が二師を訪ねたという伝承があります。学術的には、室町時代の作品とされています。

タグ:石仏 羅漢 瓜生
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若狭野陣屋を紹介した新聞記事 [旗本浅野家若狭野陣屋]

若狭野陣屋の札座

 

2016年に若狭野陣屋に残る札座の保存運動を始めました。これを紹介してくださった新聞記事は三つあります。

 

朝日新聞【はりま歴史探訪】 拠点に残る「札座」若狭野浅野家の陣屋跡

朝日新聞が浅野陣屋を紹介した記事です。コンパクトでありながら、基本的なデータがすべて書いてあります。

若狭野浅野家の紹介に始まり、札座、浅野家文書発見の経緯、文書の内容、資料展と進みます。

最後に『陣屋跡に残る「札座」の保存運動も始まった。活動する「浅野陣屋札座保存ネットワーク」の松本恵司代表は「重要な文献が見つかり先端研究が進んでいるのに、その舞台が消えるのはもったいない。保存と活用を」と呼びかけている』と私たちの活動について触れています。

文字数から考えて内容をここまで整理して記述した新聞記事は珍しいと思います。さすが、朝日新聞です。

 

赤穂民報 若狭野浅野家の旧札座で保存運動

赤穂民報は忠臣蔵の本拠地赤穂市で発行されている有力な地方紙です。この記事は、浅野家の当主、相生市教育委員会を取材しています。

昨年(注2015年)12月には旧札座と土地を所有する子孫から寄贈の申し出があったが、審議会の経緯を踏まえ、「受けられない」と回答した。 

浅野家と相生市のやりとり、そして、私たちが保存運動を始めなければならなかった事情を読んでいただけたらと思います。

 

 

 


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若狭野陣屋(浅野陣屋) [旗本浅野家若狭野陣屋]

 
 
若狭野陣屋
 
旗本三千石浅野家の若狭野陣屋。後方の桜の辺りまでが陣屋跡です。
 
前方の建物は札座。江戸時代後期、藩札(札切手)の発行を含む所領統治の役所として建てられました。江戸時代後期、各地の旗本が家政改革を行いました。若狭野浅野家も1822年に藩札を発行するなど家政改革に取り組んでいます。
 
江戸時代、一万石を超える大名が200家、3000石~5000石の大身旗本が200家ありました。大名の城跡や陣屋跡は多くが保存されていますが、大身旗本の陣屋跡で残るものはそれほど多くはありません。
 
若狭野陣屋は敷地全体が残っているうえ、江戸時代後期の建築物(札座)が残っています。旗本陣屋の陣屋門は各地に残りやすいのですが、札奉行が政務をとった役所として使われた建築物は全国でこれ一つかも知れません。地味な建物ですが、歴史的に貴重なものです。
 
若狭野陣屋
  
札座の西に、かつての陣屋門に続く道があります。左手の広場は年貢を納める場所でした。
 
江戸時代、大身旗本は江戸に住み幕府で奉行職などに就きます。当主が所領に帰ることは稀で、在地の家臣が統治にあたりました。若狭野陣屋には、北部に御殿屋敷と家老屋敷があり、江戸時代後期に南部の札座が増設されています。

若狭野陣屋
 
陣屋門跡を通り、陣屋中心部に着きました。ここには二棟の建物がありました。明治維新で当主の浅野長発が土着したとき、御殿屋敷を改築し家老屋敷を建て替えています。
 
しかし、明治30年代に浅野家は陣屋を去ります。1942(S17)年、陣屋の北半分は浅野家から若狭野地区に寄付されました。御殿屋敷跡は広場になり、北辺に稲荷神社・須賀神社・薬師堂があります。中央は若狭野須賀神社で、昭和前期に陣屋内に移転してきました。薬師堂も移転してきたものです。
 
若狭野陣屋
 
左は稲荷神社。稲荷神社は浅野家の守護神で、江戸時代から若狭野陣屋のなかに祀られていました。中央は須賀神社と絵馬堂。右手に薬師堂があります。薬師堂は、和泉式部が小式部内侍を探して若狭野に来たときに残したという守本尊を祭っています。
 
若狭野陣屋の推移
 
旗本浅野家が成立した頃の陣屋は、紫の位置にあり、小規模なものでした。本家の赤穂藩が若狭野を含めて統治していましたから、陣屋は長屋がある程度でよかったのです。
 
1701年、浅野内匠頭の刃傷事件で浅野赤穂藩は断絶します。旗本浅野家は所領を統治するために陣屋を白四角の位置に移転し拡張しました。
 
19世紀になると家政改革が必要となり、藩札の発行など統治の強化を図ります。藩札の札元は大坂天王寺屋でした。陣屋南部、赤丸の場所に札座が建築され、札座の向かいに天王寺屋の屋敷が建てられたと推定します。
 
浅野赤穂藩が断絶したとき、赤穂藩江戸屋敷から旗本浅野家が受け継いだ文書群(浅野隼人家文書)が2006年に発見され、研究が進んでいます。左は江戸時代中期、右は明治初期の若狭野陣屋の絵図です。
 
水色の丸が御殿屋敷、赤色の丸が札座です。江戸時代後期から明治維新にかけて陣屋が拡張されたことがわかります。
  
若狭野陣屋

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残念な教員 学校教育の失敗学 [でもでも教師日記]

文化祭の古本市で買いました。
 
読み始めて「息苦しい」、読む気力が続きません。で、パラパラと斜めに目を通すと、「教員は受験勉強もできない」と教員養成学部出身者を切り捨て、かえす刀で「難関学部出身の人は、受験勉強ができる。受験勉強で好成績を残せたのであれば、指導もできる・・・しかし、彼らは教育への情熱が薄く、教育技術も低い傾向にある」。
 
ウーン、林純次さん、職場でどんな人間関係を作っているのでしょう。心配。それはさておき「受験勉強で好成績を残せたら、受験指導もできる」というロジックがわかりません。受験指導はそんなに簡単なものではありませんが、かといって、普通の大学出身でも研鑽しだいで東大受験生の指導ができます。しょせん、高校レベルですから。
 
なにより、受験するのは生徒なのです。優秀な生徒は教師の受験指導のレベルを軽々と超えていきます。
 
教育学部の例として、東北大、京都大の偏差値が掲載されているのは不可解ですね。こういう大学の教育学部は偏差値は高いし、そもそも教員養成のための教育学部ではありません。51頁に掲載されている、この表を見て、読み続けるのをやめてしまいました。
 
この本、他の人の読後感はどうなのだろう?と思ってググってみました。
 
ゆっくりゆっくりさんは「書かれていることは反論することは何もないです。しかし、私が感じた違和感は何なのか」。違和感を感じておられます。反論することは何もない、というほどの本ではないですよ。違和感に自信をもちましょう。
 
国語科教員の部屋さんは「言いたいことはわかるけれども、こんなに頑張っているのになんでわかってくれないの、という暑苦しい教員の典型です」。この人、文章、上手です。私と違って最後まで読み通したようなので、国語科教員の部屋さんのリンクを読んでください。私もこういうタッチの文章を書けたらなあと思います。

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