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古墳時代の巨石信仰 [社会人のための高校日本史]

古墳時代は巨石信仰の時代でもありました。人々は巨大な岩に神が宿ると考え、ご神体として祀ったのです。
 
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磐座神社の北に並ぶ高厳山・権現山・龍王山を矢野の神山と呼びます。
 
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矢野荘の鎮守磐座神社、境内に光座石があります。
 
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羅漢渓谷、寄り添う巨岩の間を登っていくと岩窟に瓜生の羅漢石仏があります。百済から渡来した恵便・恵聡が刻み、秦河勝が二師を訪ねたという伝承があります。学術的には、室町時代の作品とされています。

タグ:石仏 羅漢 瓜生
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古墳時代 大避山古墳と若狭野古墳 [社会人のための高校日本史]

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    相生市北部 相生市南部
3世紀 邪馬台国 前方後円墳 大避山古墳  
4世紀      
5世紀 倭の五王 巨大な前方後円墳   塚森古墳
6世紀  横穴式石室へ    
7世紀 飛鳥時代  古墳と寺院の共存 若狭野古墳 那波野古墳
 
 
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矢野荘の中心部には、3世紀の大避山古墳と7世紀の若狭野古墳があります。古墳としては初期のものと末期のもので、古墳時代を通じてこの地域が大和政権と密接な関係を持っていたことがわかります。
 
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大避山古墳は3世紀の前方後円墳で、邪馬台国の時代にあたります。山の山頂部に築かれています。前方部の到着したところです。
 
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大避山古墳の竪穴式石室が陥没している部分です。
 
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那波野にある塚森古墳。前方後円墳の後方部が小さいホタテ型古墳です。周囲に濠をめぐらした、私たちが古墳といって思い浮かべるイメージに近い古墳です。
 
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若狭野陣屋の近くにある若狭野古墳。7世紀に築かれた方墳です。古墳としては最終期のもので、この時期に古墳を築くことを許されたのは、中央政府と何らかの関係を持った者に限られていました。初期の方墳はステータスが低いのですが、末期の方墳は円墳より高いステータスを示すそうです。

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矢野荘を舞台に日本史を学ぶ [社会人のための高校日本史]

WEBコミュニティ矢野荘

のどかな農村風景のパノラマ写真。矢野荘の中心部は一ヵ所に立ち止まって古代から近代まで、日本史のすべてを語ることができる希有なフィールドです。ワンストップ日本史とも言える地点で、日本でも数えるほどしかない恵まれたところです。

一枚の写真のなかに、

3世紀の初期前方後円墳 卑弥呼の時代
渡来人の秦河勝
奈良時代の条里制
平安時代の秦一族?の邸宅跡
美福門院の皇室領矢野荘と政所
地頭海老名氏と領家による下地中分
皇室から東寺への寄進

東寺と悪党寺田法念の戦い
東寺と農民の戦い 十三日講事件 逃散 一揆
中世の下土井城
赤穂浅野藩
旗本浅野家
作家水守亀の助の生誕地と私小説の舞台

と、古代から中世・近世・近代の日本史が重なり合って写っています。

エビデンスは東寺百合文書と浅野隼人家文書という一級品。

散住から集住へ、人々はいつ頃に村を形成したのか、というテーマもありますね

惣村に検地・村請制度が加わって、江戸時代の村に。高度経済成長までの日本の基本形、これを体感することなくして日本史はわかりません。

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矢野荘は中学生や高校生に日本史を教える最高のフィールドです。日本史を教える先生の研修のフィールドにも。

 

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下土井城が田植えをしたばかりの水田に写っています。山頂に中世の山城があります。堀切や郭がきれいに残っています。

若狭野陣屋

写真の場所から1㎞ほど西に、旗本浅野家の若狭野陣屋があります。元禄赤穂事件で赤穂藩が断絶した後、浅野家は陣屋を拠点として若狭野三千石を統治しました。1822年、家政改革で藩札を発行、札座は家政改革の拠点として建築されたと考えられています。


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社会人のための日本史講座プロローグ [社会人のための高校日本史]

社会人のための日本史講座
 
社会人のための日本史講座01
 
日本史を約四百年ずつ5つの時期に分けて日本史を概観してみます。それぞれのサイクルは、人口変動 → 人口静止(文化の発展)→ 新たな変動 で構成されています。
 
このグラフの前に長い縄文時代があります。縄文時代は狩猟採集経済でしたが、暖かかった時代で、人口は東日本の方が多いという特徴があります。
 
縄文末期、寒冷化して人口が急減しますが、稲作が伝来して人口は増加基調に戻ります。稲作伝来以来、急激な人口減はなく、生活が安定したことがわかります。一方、農耕システムを稼働させる大規模な組織が必要になり、やがて統一政権へと向かいます。
 
 
 
Ⅰ  200~ 600  邪馬台国から聖徳太子まで
 
小国家が徐々に統一され邪馬台国が成立します。耕地の開発が行われ、権力者が古墳を作り権力を誇示しました。
 
相生では、大避山古墳(初期の前方後円墳)→ 塚森古墳(前方後円墳) 
 → 那波野古墳(横穴式石室の円墳) → 若狭野古墳(方墳)等があります。
 
古墳時代、巨石信仰が始まりました。相生には、巨石信仰として磐座神社と瓜生羅漢石仏があります。
 
600年頃,中国から統一的な政治システム(律令制)と統一的な世界観(仏教)が伝わりました。聖徳太子がこれらの導入を図り、天武天皇によって律令国家が成立します。
 
相生では、秦河勝が漂着して神になったという伝承があり、秦氏による開発が進みました。若狭野に条里制が保存されています。
 
 
Ⅱ 700~1100  律令制(公地公民) 
 
土地は原則国有で、所有権(使用権)を政府が保証しました
口分田は、男2段、女は男の三分の二、四人家族で口分田は6~7段
税は租庸調と雑徭+兵役(人に課税 物と労働で納める)
水利など農耕施設の管理は政府が行う
 
900年頃(平安時代中期)、班田収授をあきらめ、国司が公地(国衙領)を管理するようになります。国司は国衙領を田堵(農園経営者)に経営させ税を納めさせました。税は土地に課税する
 
900~1100 人口静止期で、国風文化が発展しました・・A
       紫式部の源氏物語 仮名文字 和歌
 
相生では、秦内麿が三濃山求福教寺を建立しました
     秦為辰が久富保を開発し、国司の藤原顕季に寄進しました
 
1100年代 鳥羽上皇が皇室に荘園を集中させる方針をとります
 
相生では、皇后美福門院が相生市全域を皇室領矢野荘にしました
 
 
Ⅲ 1200~1600 荘園公領制  公有地(公領)と私有地(荘園)
 
この時代の特徴は、土地所有権を政府が統一的に保証する制度がないことです
各自が土地の所有権と収益権(職 しき)を確保しなければなりません
例 本家職・領家職・公文職・地頭職・名主職
 
鎌倉末期、水利の管理を農民が行うようになります 
→ 農民は集まって住み、共同して農作業をするようになりました(惣村)
 
相生では、鎌倉時代は皇室領矢野荘に地頭海老名氏が赴任してきます
鎌倉時代末期、矢野荘で下地中分が行われます
その後、領家方が東寺領になり、東寺百合文書に記録が残りました
 
1400~1500 人口静止期に入り、足利義政の東山文化が発達します・・B  
       能楽・茶道・書院造
 
1500年代 戦国大名が直に土地を把握しようとし、豊臣秀吉の太閤検地で完成します
 
 
Ⅳ 1600~2000 幕藩体制  土地は私有地 所有権を政府が保証
 
兵農分離 武士は城下町に集住 兵役の義務
     百姓は村請制で年貢を負担します
 
1600~1700 新田開発と人口急増
1700~1850 人口静止期に元禄文化・化政文化が発達します・・C
       歌舞伎・文楽・俳句
 
相生は、初め浅野赤穂藩、中期以降は天領・旗本浅野領・森赤穂藩領に三分割されました
旗本浅野家の若狭野陣屋と浅野隼人家文書が現存しています
 
1900年代  資本主義と高度経済成長 都市への人口移動 高齢化による村の衰退
     → 地縁・血縁の崩壊 グローバル化 
     コンテナ船→物流の壁がなくなる ネット→情報の壁がなくなる
 
地縁血縁の共同体が解体するなか、人の新しい結びつきが模索されています
一方で、唯一信頼できるものとして家族が重視されるようになっています
 
戦前の日本は江戸時代のムラ社会を基盤としていました。戦後、日本国憲法と象徴天皇制が導入され、高度経済成長が実現しました
 
2000年代 日本を近代化しようとする日本国憲法と、近代化に抵抗する改憲勢力の争いが続いています
 
 
Ⅴ 2000~2400 未来の日本は?
 
四人家族を維持できる社会システムを構築できるか
農村共同体が解体したあと、人々は何で結びつくのか
日本は近代(自立した個人による社会)を実現できるか
 
西欧・北米発祥の個人主義+民主主義 あるいは
中国発祥の家族主義+科挙主義 のどちらを選択するか

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思考力を問う日本史の問題 [社会人のための高校日本史]

2020年度大学入試にあわせた思考力・表現力を問う問題を作ってみました

資料1~6を使用して、経済・社会・技術の面から、太平洋戦争を論じなさい

資料1

日本史講座オンライン

1947(昭和22)年、日本を占領していた米軍は、日本全土の航空写真を撮影しました。上は、兵庫県の西部にある小都市の写真です。この地域は地峡になっていて、主要な陸上交通路はすべてここを通過します。Bは、山陽本線の駅です。Cは造船所、貨物船や油槽船の建造では日本有数の造船所です。Dは簡易造船所。戦時中の船舶不足を補うため、1943(昭和18年)に建造が始まりました。戦時中は、2万人がこの町で働いていました。

資料2

日本史講座オンライン

播磨造船所は貨物船や油槽船など商船建造では日本有数の造船所でした。1942(昭和17)年、船舶不足を補うため海軍は簡易造船所を増設を決定し、1943(昭和18)年に油槽船の量産が始まりました。本工に加えて、勤労学生・中国・朝鮮・学生・囚人まで動員、最大時には2万人が軍需工場で働いていました。

資料3

日本史講座オンライン

市民が海軍に飛行機を献納したことを記念する絵葉書。国民から献納された飛行機を、海軍は報国号、陸軍は愛国号と称しました。

資料4

日本史講座オンライン

国道(西国街道)を神社に向かって行進する国民学校の生徒 写真のA地点で北から南を向いて撮影

資料5

米国の耐久消費財普及率 画像をクリックすると拡大します

資料6

日本の耐久消費財普及率 画像をクリックすると拡大します


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