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700文字のエッセイ ブログトップ
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スイゲンチ [700文字のエッセイ]

夏に雨が降ると、旭小学校からの帰り道には楽しみがあった。南本町と東本町の間を流れる小川でフナをとるのである。フナは上流のスイゲンチという池から流れてくる。今、池は住宅地に変わり、小川は暗渠になってしまった。
 
社宅の北、子供たちが幽霊山と呼んで遊び場にしていた小山にコンクリートでできた直方体の構造物があった。私たちは「機関砲の陣地」と噂していた。本当は、トーチカは磯際山にあり、幽霊山にあったのは水道の貯水槽である。水源地から中央小学校の山を経て幽霊山の浄水施設に水が流れ、山頂の貯水槽から社宅街に水が供給されていたらしい。
 
教科書には「社会保障は、社会保険・公的扶助・社会福祉・公衆衛生からなる」と書いてある。現在、公衆衛生は当たり前になっているが、昭和三十年代まで衛生状態の改善は緊急の課題であった。有年考古館に隣接していた松岡医院の待合室で「トラコーマの罹患率三割」という表を見たことがある。戦前、トラコーマと赤痢は日常的な伝染病で、避病院が各地にあった。こうした感染症が激減したのは水道のおかげである。
 
相生の公設水道は昭和十四年に相生町が設置した水道に始まる。旭の水道はいつ作られたのか。古老は「昭和六年に引っ越してきたとき水道があった。十軒くらいの共同で、炊事・飲用は水道、雑用は井戸水。播磨造船は社宅を大切にしていた」と話す。
 
今年は鈴木商店の相生進出百周年。鈴木商店がもたらした近代化の一つとして水道を記録しておきたい。写真に撮っておかなかったのが、かえすがえす残念なことである。
 
2016.08

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一六夜店 [700文字のエッセイ]

子どもの頃、七月になると一六夜店がにぎわった。綿あめ・アイスクリームのような食べ物・飲み物も楽しみであったが、人気は松田の魚屋の鉄砲による水玉落としと吉村の花屋のだるま落としである。成功するとくじ引き券がもらえ、それでくじを引く。券を手に入れるまでの技術とくじ引きのギャンブル性が上手く調和している優れものの遊びだった。
 
見ているだけでも面白いし、たくさんの観客がいるから撃ったり投げたりする方も力が入るというものだ。金魚すくいも技術が必要であった。カミソリで紙の輪を切る紙切りは、おっさんは簡単に切ってみせるのだが自分がやってみると成功せず、不思議な気持ちがした。
 
ヒヨコを買うにもギャンブルがあった。雄一〇円、雌百円と並んで「無鑑別」というヒヨコがいた。三羽で何十円かだった。おっさんが言う「雌が入っていれば大儲けや」。目をこらして三羽を選び育ててみるとみんな雄だった。餌代が負担になってきた頃、三羽はカシワ屋に引き取られて夕食のおかずとなった。それからしばらく、カシワを見ると吐き気がしたのは三羽の亡霊のせいか。
 
今になって考えてみると、食べたカシワは育てた三羽とは違う鳥のものだったろう。そもそも無鑑別のなかに雌は混じっていたのか、ヒヨコ屋にだまされたのではないかと残念に思う。こうした苦い思い出も含めて一六夜店は楽しかった。
 
本町商店街六十年史によると、昭和23年「働く人々の憩いの場もないので夜店でもしては」という話し合いが私の家の二階で開かれたらしい。少し嬉しい記述である。
 
2016.07

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共通テーマ:日記・雑感

琴棋書画 [700文字のエッセイ]

古代中国の貴族の教養は琴棋書画(きんきしょが)であった。日本もこれに倣(なら)い、日光東照宮の陽明門に「君主の四芸」の彫刻がある。
 
琴棋書画は学校教育に受け継がれて、音楽・書道・美術になったが、棋(囲碁)は消えて代わりに体育が入った。西洋の学校教育に囲碁はなく体育があったかららしい。欧州の支配階級は身体を鍛えたが、中国では知性による国家統治が理想とされ、上流階級は囲碁という知的スポーツを楽しんだ。
 
音楽・美術・書道・体育という趣味系の教科に対し、国語・数学・理科・社会・英語は実用系の教科である。生活の糧を得るために進学をめざす入試においては英数国などが重視され、こちらの成績が良い人が「頭が良い」と評価されるが、それは収入を得るまでのことである。
 
生活が安定すれば、楽器が演奏できたり、絵が描けたりする方が人生は豊かになる。私は、英数国はできるが音美書はできないタイプだったので、音美書ができる方が恵まれているように見えてしまう。
 
残念に思うのは、音美書ができない原因が、才能がなかったのか、教えられ方が悪かったのか判然としないことである。「できるようにならないなあ」と何年も悩んだすえに、良い恩師にめぐりあって急速に上達した経験が二つある。英語と囲碁。初歩的なつまずきを個人指導で修正してもらってから、平均的な人よりは上手くできるようになった。
 
教室の集団授業で教えられることには限界がある。どうしても上達したいなら、個人で礼を尽くして教えを乞う勇気が必要だ。生徒の姿勢が先生の実力を引き出すのである。
 
2016.06

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日本史まなびツーリズム [700文字のエッセイ]

六〇年代後半、造船ブームに沸く相生から龍野高校に通った。龍野は眠ったような町で、何もない城跡に小さな図書館があった。今、龍野城は再建され、観光客が町なかを歩いている。
 
二月発行の「はりま読本」を見ると、忠臣蔵の赤穂・小京都の龍野と続き、相生は出てこない。相生の現状を象徴しているようだ。
 
成長の時代は終わりを告げ、人々はアイデンティティを求めて歴史を振り返る時代になった。城下町ブームはその典型である。が、相生には城がない。でも、ものは考えようで、城があると思考は城下町で停止してしまう。城がないと模索を続けざるを得ない。
 
たどりつくのは、皇室領矢野荘。東寺百合文書が世界記憶遺産に登録されて文書での地位は確立した。矢野荘の中心部であった若狭野町は、市街地から離れていて荘園の面影を色濃く残している。歴史的な知識を学んで若狭野を歩くと、神社・寺院・山城と中世の様子を思い起こすことができる。
 
現在、中世の荘園をルーツとすると称している都市はない。私たちが「相生は皇室領矢野荘の末裔である」と自覚すれば、日本初の荘園都市になることができる。相生には古代から近代まで小都市には珍しいほど歴史遺産が蓄積されている。組み合わせとポジショニングを考えて通好みの観光地に仕立ててみよう。名づけて「日本史まなびツーリズム」。
 
江戸時代が弱かったが、浅野陣屋というミッシングリンクがあった。陣屋には札座が現存し、関連史料が相次いで発見されている。陣屋から三濃山へのコースは無限の可能性を秘めている。
 
2016.04

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唐端清太郎 [700文字のエッセイ]

江戸時代初期、西播磨に赤穂藩・龍野藩・山崎藩・平福藩が設置される。四つの藩は変遷を重ね、戦後の赤穂市・龍野市・山崎町・佐用町になった。一方、江戸時代の相生(あいおい)は赤穂藩の辺境に過ぎず、相生市は藩を母体としない珍しい自治体なのである。
 
相生が近代都市に成長したのは、唐端(からはた)清太郎の努力に尽きるといってもよい。一八八九年、町村制の施行とともに相生(おお)村が発足したが、村政は混乱を極めた。村の有力者は、赤穂郡の書記であった唐端清太郎を村長に招聘(しょうへい)する。時に三十歳、唐端は二十年余りにわたって村長を務めながら、県会議長に就任するなど阪神政財界で活躍し、村役場には不在がちであった。
 
一九〇七年、地域の未来を託して播磨船渠(せんきょ)を設立、一九一六年、鈴木商店の資本導入に成功、この間に町制を施行した。唐端は村長になる前の一八八八年、『町村制度未来(あした)の夢』を上梓(じょうし)している。「経費は余計要(い)るとも効能の比較的に多い事を企画(やら)ねばなりません」という一節は、積極的な村政を連想させる。
 
この本に、家出してでも大阪の梅花女学校に進学しようという十六歳の女性二人が登場する。当時、県内の女学校は神戸女学院しかなかった。『あさが来た』のモデル広岡浅子が日本女子大設立に奔走するのは十年も後のことである。唐端のペンネームである雨香(うこう)散史(さんし)は二人にこう語る。「貴嬢(あなた)方が学問なさるに就いても・・独立の思想を養成(やしな)い・・婦女の品格を昇(たか)めて真正(ほんとう)に女権(じょけん)の拡張を計りなさるが肝要です」。
 
唐端の斬新な発想がわかるとともに、この青年を招いて村政を委ねた有力者の見識がうかがえる。
 
2016.04

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