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進水記念絵葉書 ブログトップ

新聞で読む戦前の相生 [進水記念絵葉書]

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第一次世界大戦中、鈴木商店が播磨造船所を拡張し、従業員のための社宅を建てました。造船所の従業員は、社員と職工に分かれており、社宅も一戸建ての社員社宅と長屋の職工社宅がありました。
 
大阪朝日新聞 1919.08.29(大正8)の記事はこう伝えています。
「社宅には、三間の職工社宅と門構えのある六間の社宅があるが。造船所は家賃さえ支払えば、職工・社員がどの社宅に住んでも構わないとしている。もっとも、職工で六間の社宅を選ぶ者はいないが。」
 
神戸大学電子図書館システム新聞記事文庫で、相生関係の記事を探しました。
リンクから新聞記事を読みますと、大正時代の相生の雰囲気が伝わってきます。
 
神戸大学電子図書館システム新聞記事文庫で読む相生  大正時代  
 
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大阪毎日新聞 1915.05.07(大正4)
相生と坂越の将来
 
相生港が造船所とともに発展していることを報じ、「那波と相生は同心異体の間柄である。殊に其築港計画が那波と相生の中間に起さるるの関係上、将来は那波も相生も連接合併して大なる市街を建設すべき運命に在るものと予想せねばならぬ」と結んでいる。 
 
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神戸又新日報 1917.7.28(大正6)
鈴木造船大拡張
 
鈴木商店が播磨船渠・鳥羽造船を買収し、播磨は船台を2台から5台に増築、鳥羽は木造船から鋼鉄船に変更しようとしている様子が記述されている。鈴木商店が、米国からの輸入鋼材を確保していたことも書かれている。 
 
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神戸又新日報 1918.02.09(大正7)
軌道の要らぬ電車 : 本邦最初の新交通機関
 
唐端清太郎氏外八名が、山陽線那波停車場前から相生町へ電鉄を敷設する計画を提出した。実現していたら、日本最初のトロリーバスになっていた。 
 
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神戸又新日報 1918.03.18-1918.03.22(大正7)
西播の港湾
 
港湾政策の立場から、岩見・室津・相生・那波・坂越・新浜・塩屋の港を考察した記事。
相生港は、「西播唯一の工業港」と評価され、唐端清太郎の活躍、播磨造船所の成り立ち及び極東硝子操業開始についての記述がある。那波港は、赤穂塩の鉄道への積み替え港とされ、浚渫が絶えず行われていたと記述されている。坂越港と奥藤家の保守的な姿勢も興味深い。 
 
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大阪朝日 1919.08.29(大正8)
職工も社員も同じ長屋に
播磨造船所の階級的待遇無差別と排温情主義
 
造船所の従業員は5000を越え、造船所は社宅を急増させた。社宅には、三間の職工社宅と門構えのある六間の社宅があるが。造船所は家賃さえ支払えば、職工・社員がどの社宅に住んでも構わないとしている。もっとも、職工で六間の社宅を選ぶ者はいないが。活気にわく相生の町、友愛会の進出、庶務課長北村徳太郎氏が友愛会機関誌の愛読者であること等を特派員がレポートしている。 
 
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大阪毎日 1919.09.14(大正8)
播磨造船臨時休業
技師職長を襲撃し多数の負傷者を出す
 
播磨造船所の職工が増給を要求、会社との交渉が不調におわると、職長・組長の部屋に押しかける騒ぎとなった。那波分署長は姫路署長に応援を依頼、神戸の本社から辻専務が出張するなど緊迫した事態が続いている。 
 
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大阪朝日 1920.02.06(大正9)
神戸の補助港たらんとする相生港
臨港鉄道敷設請願
 
播磨造船所の興隆によって相生町の人口は倍増し15000に達した。相生港をさらに発展させるためには、山陽線那波駅より相生町まで引込線を敷設する必要がある。薮谷より松の浦の間の県道の西側海面約一万坪を埋立て之れに充て尚荷揚場、貯蔵所を設置しようという計画である。 
 
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大阪毎日 1920.05.14(大正9)
造船所職工結束して日用品不買の申合せ
原因は村税賦課から那波村の紛擾
     
那波村が造船所の職員職工に附加税が課税したことに、職員職工が反発、村長・議員の辞職を要求した。役員職工は結束して同村在住の販売屋理髪業女髪結は勿論新聞店に至るまで往復を遮断し一品の供給も受けないことにした。 
 
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大阪時事 1921.02.08(大正10)
播磨造船の職工解雇
辻取締役より職工に窮状を訴う
 
播磨造船所は神戸製鋼所に併合する事に内定していた。その前提として、職工冗員の淘汰を断行することに決定し、播磨造船所では七日午後辻取締役が職工を招集、実情を語り職工五千名の中九百八十名を解雇することを発表した。涙金の額は、大阪鉄工所等より多い。 
 
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大阪時事 1921.08.12(大正10)
経営せる播磨造船の職工に生活難の叫び
会社側は主脳者を解職す
 
神戸製鋼所の経営に移ると同時に播磨造船所の事業が縮小された。各工場の有志は馘首手当・工場委員制度の採用、 積立金の配当を行え等の要求案を提げ旗上をなさんとしたが、会社は約二十名を馘首した 
 
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大阪時事新報 1921.08.19(大正10)
播磨造船所の労働演説会
物々しい警戒裏に中止、中止で了る
 
赤穂郡相生町巴座に於て労働演説大会が開催された。播磨造船所の職工が不穏な折柄とあって、警察が会場内を警戒し、署長監視の下に播磨造船の労働組合長神野氏が開会の辞を述べた。 幸いに一人の検束者も出さなかったが、地方には珍らしい物々しい演説会であった。 
 
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神戸又新日報 1921.8.10(大正10) 
波斯石油積取 橘丸と満珠丸
帝国石油会社所属油槽船橘丸は、神戸の鈴木商店傭船として倫敦からアパータンへ直航した。播磨造船所で艤装中の姉妹船満珠丸は、九月上旬には鈴木商店の傭船として大連より豆油を積載、英国倫敦に向かう。 
 
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神戸新聞 1922.09.01(大正11) 謝っても買ってやらぬと愈よ鼻息が荒くなった女房連
播磨造船社宅の不買同盟 規約八箇条を設けて結束
 
古池の播磨造船所社宅七十五戸の主婦が、結束して同部落の売店四戸に対し不買同盟を実行し、他部落の売店矢野仙吉方から物資の購入することになった。矢面にたった四商店は手も足も出ない状態である。 
 
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進水記念絵葉書の画家 [進水記念絵葉書]

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宮本三郎画 剛邦丸 田中盛雄画 LUTSK
 
船の画家 
 
進水記念絵葉書は、進水する船の絵を描いた絵葉書(船景絵葉書)と、その船に関係する絵柄を描いた絵葉書の二枚組になっています。船景絵葉書の原画は誰が描いているのでしょうか。実は、「船の画家」は、造船所のなかにいます。彼らは本職のかたわら、夜や休日に自宅で絵筆を握り船景を描いてきました。
 
昭和初期、播磨造船所の進水記念絵葉書に、油絵の原画をもとに作成されたカラーの船景絵葉書が登場します。当初は、いろいろな人が作画に携わっていたらしく、1930年代の船景絵葉書には、Y.Ito Samuro Shuko.Noto I.Hiramatu M.Tanakaなど様々なサインが見えます。1930年代末になるとSamuro(宮本三郎氏)とM.Tanaka(田中盛雄氏)が多くなります。戦後、新造船の再開時はK.Mimuraのサインが多く、1950年代は宮本三郎氏、1960年代からは田中盛雄氏が中心となって絵を描いています。
 
造船華やかなりし頃、7月20日の「海の記念日」には、神戸新聞が造船に関係する特集記事を掲載していました。このなかに、二人が紹介されています。
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神戸新聞 1959.07.20
船の画家① 宮本三郎氏
 
本職のかたわら三十余年間せっせと船を描きつづけているという二十日の海の記念日にふさわし い人が造船の町相生にいる。播磨造船所施設部長、宮本三郎氏(54)=相生市那波=がその人。
 
播磨造船所は新しく建造した船が進水するごとに美しい船景絵ハガキをつくるが、この原画を描 いているのが、宮本氏。東京高等工芸を卒業しているところから入社後間もない昭和2年9月、同造 船所で進水した稚内-大泊間砕氷鉄道連絡船亜庭丸 (3.298総㌧)の船景を描かされたのが始まり。それから32年、忙しい仕事のかたわらずっと船を描いてきた。
 
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神戸新聞1966.07.20
船の画家② 田中盛雄氏
きょう二十日は海の記念日。相生市の石川島播磨重工で仕事の余暇にこつこつと三十年間、船の 進水ごとに新造船の完成図を油絵で描いているかくれた「船画家」の話題
 
同重工相生第一工場スタフ、管理技師といういかめしい肩書きを持つ田中盛雄さん(51)=相生市 赤坂町=がその人。安全関係の仕事が長いため、「安全の田中さん」といえば七千従業員のだれも が知っているが、田中さんが進水ごとにつくられる新造船完成図の美しい絵ハガキの原画を描いて いるとは知る人も少ない。
 
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お二人とも、東京高等工芸学校(千葉大学工学部の前身)を卒業して播磨造船所に入社、会社の依頼で進水記念絵葉書の船景を描き始めました。宮本氏は昭和2年から、田中氏は昭和12年から数十年にわたり、それぞれ百枚をはるかに超える船景を描いています。
 
進水記念絵葉書の原画は、美術の専門家ではなく、絵心のある造船所職員によって描かれるのは何故なのでしょうか。その理由は、想像によって実物そのものの絵を描かなければならないところにあります。進水記念絵葉は進水式で配りますから、原画を作成し絵葉書を印刷する段階では、船は船台で建造中です。したがって、船景を描く人は、実物をスケッチすることはできません。彼らは、設計に使う平面図と側面図を参考に透視図を作り、塗装する色から窓の数・ロープの張り方まで実物と少しの違いもないように描くのです。
 
停泊している船と違い航海中の船を描くためには、海の色と波の立ち方が大切です。船の大きさとスピードに応じた波を描くことによって船が生き生きとしてきます。両氏は、神戸新聞の記者にこのように語っています。
 
「一番難しいのは海の色と船の走っているときの波の立ち方で、船の大きさ、スピードに応じた波をださないといけないからだ」・・宮本三郎氏
「波の立ち方にしても船の大きさ、スピードに応じてそれぞれ異なるので、それを十分に知ったうえで波を描かないと船の絵が死んでしまう」・・田中盛雄氏
 
近海を航海する船の背景には島や海岸を、遠洋を航海する船の背景には大洋を描いて就航する航路を表し、空や海の色で進水する時期の季節感を表します。船景の絵は、船体・航海の様子・航路・季節感というすべての情報を正確に表現したうえで、芸術的に美しいことを要求されます。「船の画家」たちは、このように技術と美術を両立させる作品を描いてきました。
 
船の原画は、絵葉書を作成した後、船主に記念品として贈られます。宮本氏や田中氏の船景画は名人芸と賞され、船長さんなどに「もう一枚描いてもらえないか」と頼まれることもありました。
 
相生の町に原画は残っていませんが、船の画家たちが精魂を傾けた作品によって作成された絵葉書の多くが私たちの手許に伝わっています。私たちは、進水記念絵葉書によって、船の様子や建造された時代の雰囲気を感じるとることができます。この写真集が、相生で生み出された船景画という芸術作品を後世に残す一助となればと思います。
 
 

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播磨造船所進水記念絵葉書写真集 [進水記念絵葉書]

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1907(M40)年、相生村長唐端清太郎は、村の未来を託して小さな造船所「播磨船渠」を設立しました。第一次世界大戦中、鈴木商店が膨大な資本を投じて造船所を拡張します。鈴木商店は、播磨造船所に北村徳太郎を初めとする若き精鋭を送り込みます。彼らは、新しい資本主義をこの地に創ろうと試みました。そして、村人は「ハリマドック」を「わしらのドック」と呼び続けました。
 
  播磨造船所青年会会歌
   作詞 林 彦一  
   作曲 津川主一
  山悠久の態をなし  
  海は平和の色湛ふ
  自然の良港相生の  
  誇りや播磨造船所
 
進水記念絵葉書は、少数作成され進水式の関係者に配布されます。絵葉書の様式は、時代によって変化しますが、代表的な様式として、昭和10年代の絵葉書と昭和40年代の絵葉書を紹介します。
 
昭和10年代の絵葉書は、絵葉書袋(タトゥ)のなかに、船の絵葉書と船名に関連した絵柄の絵葉書、そして要目が入っています。昭和20年代は過渡期で、タトゥのなかに船の絵葉書と要目が入っており、昭和30年代からタトゥがなくなって冊子に変わります。冊子は、船名に関連した絵柄の絵葉書が表紙、2枚目と3枚目が要目とGeneral Arrangement、4枚目が船の絵葉書、5枚目が裏表紙になっています。
 
戦前の絵葉書は官製葉書とほぼ同じですが、戦後の絵葉書はサイズがバラバラです。この写真集では、概ね原寸大のサイズにしてありますが、編集の都合上、戦前の絵葉書の画像は幅を統一し、戦後の絵葉書は高さを統一しています。
 
進水記念絵葉書は、船の建造中に作りますので、完成した船の写真がなく、図面を元に描いた絵を使います。そして、原画を船主に贈ります。相生では、宮本三郎氏と田中盛雄氏が多くの船を描いています。船景画の作者については、次ページ「船の画家」をご覧ください。
 
この写真集は、進水記念絵葉書を集めたものですから、進水順に並べています。また、船の要目は、絵葉書の要目の数値を優先し、絵葉書付属の要目が入手出来ない場合は、播磨造船所50年史などで補いました。絵葉書の要目は、設計上のこれを下回ることはないという数値で、通常、完成した船の数値は絵葉書の要目の数値を上回ります。なお、500番船PANは、絵葉書では8,000総トン、50年史では10,487総トンと記されており、両者の数値が大きく異なっていますが、こうした場合でも絵葉書の数値を採用しています。
 
播磨造船所の絵葉書について不明なことは多々残っているのですが、絵葉書画像の収集を始めて五年が経過し、現在入手しうる絵葉書はほぼ網羅したものと考え、写真集としてまとめました。
  

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播磨造船所進水記念絵葉書コレクション [進水記念絵葉書]

播磨造船所進水記念絵葉書コレクション 

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明治40年、相生村長唐端清太郎は「造船所を創れば船が入り人が集まる」と考え、小さな造船所、播磨船渠を設立しました。
第一次大戦中、鈴木商店がこれを買収し、莫大な資本を投下して、播磨造船所を拡張します。それから、1世紀にわたり、播磨造船所と相生市は盛衰をともにしました。
この頁では、私の絵葉書コレクションを紹介します。

1916-300-kibimaru.jpg 1916.05.23進水 吉備丸 
豊崎昌三郎氏の貨物船
垂線長 223呎  1174総トン
播磨造船所の新造一番船は鈴木商店向けの小型船神の浦丸、続いて建造された二番船が吉備丸である。絵葉書に描かれている社旗は、鈴木商店傘下に入る前の「播磨造船株式会社」の社旗。
1920-300-eastern.jpg 1920.04.03進水 EASTERN SOLDIER
米国に輸出された貨物船
垂線長 4253呎  6818総トン
第一次世界大戦中、日本は鉄鋼が不足しており、米国から船舶輸出を条件として鋼材を輸入する契約を結んだ。このようにして、輸出された船を船鉄交換船という。
1933-300-komakimaru.jpg 1933.07.08進水 小牧丸
国際汽船の貨物船
垂線長 450呎  6500総トン
大阪商船がパナマ運河経由のニューヨーク急行便を就航させると、海運各社は競って高速船を同航路に投入した。小牧丸は、ディーゼルエンジンで20節の最強速力を誇り、播磨造船所の傑作といわれた。
1939-300-koamaru.jpg 1939.09.28進水 興亜丸
東亜海運の貨客船
垂線長 98米  3500総トン
揚子江の上海~漢口航路に就航した浅吃水貨客船。
1949-300-yokomaru.jpg 1949.03.26進水 陽光丸 
三光汽船の貨物船
垂線長 115米  4660総トン
三光汽船が大阪商船系のオーナーであった頃の船。陽光・月光・星光を三光という。河本敏夫率いる三光汽船は、後日、独立系オペレーターとして急成長を遂げる。
1951-300-nissomaru.jpg 1951.09.26進水 日章丸
出光興産の油槽船
垂線長 163米  12000総トン
イランが原油を国有化すると、出光興産は日章丸をイランに向かわせ、原油の直接取引に成功、BPとの紛争を切り抜けて民族系石油資本として発展した。
1952-300-aspasia.jpg 1952.11.01進水 ASPASIA NOMIKOS
NOMIKOSの油槽船
垂線長 167米  20000重量トン
民間ルートで最初に輸出された船。ギリシア船主はこの船を高く評価し次々に日本に船舶を発注した。1950年代後半から60年代にかけて、船舶は日本の主力輸出品となった。
1958-300-gohomaru.jpg 1958.09.19進水 剛邦丸
飯野海運の貨物船
垂線長 213米  28200総トン
47000重量トン型の第一船。建造当時、日本最大の商船で、進水式には永野運輸相が出席した。サウジアラビアから下津に原油を運ぶ航路に就航。
 
4102hyosi_12.jpg
 
左 
播磨造船所進水記念絵葉書写真集  創業~1960年
播磨造船所進水記念絵葉書写真集続編 1960年~
石川島播磨重工相生建造分
 
多くの絵葉書所蔵者から相生映像アーカイブに寄せていただいた画像を使って作った写真集です。相生で建造された船の進水記念絵葉書のうち、現在入手できるほぼ全ての画像を収録しています。
 
 

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