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官民が協働した取組ができれば [浅野陣屋2016]

2016年8月の相生市の議会だよりに、浅野陣屋の写真が掲載されています。それから、まもなく一年ですが、つらつら読み直してみると
  
宮艸議員の質問に対する答弁は
「地域や所有者、行政の枠組みだけでは限界があり」
「将来的には広く官民が協働した取組みが出来ればよいと考えています」
となっています。
 
エーッ!!!
所有者がその気になって、兵庫県の古民家再生支援事業の再生提案まで準備したのに、「そういう制度が迷惑なんです」と言ったのはどなたでしたっけ
 
将来的には・・・・ 
= 今は(しない)・・・・
官民が協働した取り組み・・・・
= 民はやる気だけれど官が・・
ということですかねえ?
 
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歴史総合新設より日本史世界史必修に [でもでも教師日記]

高校に歴史総合という科目の新設が予定されている。
 
現在、世界史が必修で日本史・地理が選択になっている。日本史を学ばなくても卒業できるのはおかしいという意見があり、歴史総合で日本史と世界史をミックスして学び、その後、日本史・世界史・地理を選択させるという発想らしい。
 
高校の教員からみると「またか」とうんざりさせられる光景である。
 
1960年代、地理・日本史・世界史はすべて必修であった。ところが、現代社会で入門編を学んでから選択させるという方針で現代社会が導入され、日本史・世界史・地理は選択になった。
 
すると、世界史選択者が減ってしまい、「国際時代を迎えて世界史を学ばないのはおかしい」と言って世界史を必修にした。世界史を必修にした結果、地理・日本史のどちらかは選択しないことになる。日本史・世界史の両方を必修にすると時間が足らないので歴史総合を新設しようというのだろう。
 
こういう、ハイブリッドタイプで単位の少ない科目が上手くいくことはない。40年前に導入された現代社会は今に至るもまともな科目扱いされておらず、高校現場に現代社会の専門家はいない。
 
本来、日本史・世界史・地理は必修だったのだから、3科目とも必修に戻せば良さそうなものだが、それはできない事情がある。根本的な原因は、授業時間数の減少である。
 
50年前、一週間は34コマ、3年間で102コマであった。ところが、週5日制で週に4コマ減って30コマ、3年間で90コマになった。さらに、情報で2コマ、総合学習で3コマ消費するので、85コマになる。
 
総コマ数が減っているので、社会科に割り当てられるコマ数が減る。減ったコマから現代社会に2コマを割く。だから、50年前には実現できていた日本史・世界史・地理の必修が不可能になった。
 
こうした根本原因から目をそむけて、社会科のなかをいじりまわす。愚かなことである。今でも中学校の社会科の歴史が日本史中心になっていて、世界史の知識がない生徒たちが高校に入学してくる。この生徒たちに「歴史総合?」。何を考えているのやら。
 
この原因は、大学の先生たちが高校社会科をいじくりまわすところにある。日本史業界・世界史業界・地理業界の先生たちの勢力争いである。
 
大学の先生は、歴史の一分野を深く研究しているが、世界史全般・日本史全般を研究しているわけではない。ましてや、日本史も世界史も地理も含む社会科を担当したこともない。彼らは社会科の専門家ではないのである。専門家でない人たちがいじくりまわすので、いじればいじるほど現場は混乱する。これが、高校社会科の現状。
 
そうそう、かつての社会科は地歴科・公民科に分割されている。一年の現代社会は公民科、なので地歴科の免許しかない先生は一年生の担任ができない。社会科を地歴科・公民科に分割した人たちが高校現場に無知であることが、この一事に露呈している。
 
それでは、私が解決案(日本史・世界史・地理すべて必修)を示す。生徒の週5日制と教育労働者の週休2日制には別個の問題である。そこで、教師の定数を2割増やして土曜も6時間授業をする(スーパーが交代勤務で年中無休にしているのと同じ原理)。次に、高校の校舎をエアコン完備にして夏休みを短縮する。これで、授業時数が確保できたので、日本史・世界史・地理をすべて必修にする。現代社会は廃止する。歴史総合は作らない。
 
1960年代の日本史・世界史・地理すべて必修時代を経験した人たちは、まもなく教育現場を去る。
 
この半世紀、社会科は授業時数の減少と選択科目やハイブリッド科目の増加でぐちゃぐちゃになってしまった。社会科を日本史・世界史・地理・倫社・政経の必修というシンプルなスタイルに戻して安定させる。そのうえで、高校の先生と大学の先生が協働して各科目の内容を熟成する。
 
どの科目を必修にするのか?という迷いは捨てなければならない。

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新聞で読む戦前の相生 [進水記念絵葉書]

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第一次世界大戦中、鈴木商店が播磨造船所を拡張し、従業員のための社宅を建てました。造船所の従業員は、社員と職工に分かれており、社宅も一戸建ての社員社宅と長屋の職工社宅がありました。
 
大阪朝日新聞 1919.08.29(大正8)の記事はこう伝えています。
「社宅には、三間の職工社宅と門構えのある六間の社宅があるが。造船所は家賃さえ支払えば、職工・社員がどの社宅に住んでも構わないとしている。もっとも、職工で六間の社宅を選ぶ者はいないが。」
 
神戸大学電子図書館システム新聞記事文庫で、相生関係の記事を探しました。
リンクから新聞記事を読みますと、大正時代の相生の雰囲気が伝わってきます。
 
神戸大学電子図書館システム新聞記事文庫で読む相生  大正時代  
 
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大阪毎日新聞 1915.05.07(大正4)
相生と坂越の将来
 
相生港が造船所とともに発展していることを報じ、「那波と相生は同心異体の間柄である。殊に其築港計画が那波と相生の中間に起さるるの関係上、将来は那波も相生も連接合併して大なる市街を建設すべき運命に在るものと予想せねばならぬ」と結んでいる。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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神戸又新日報 1917.7.28(大正6)
鈴木造船大拡張
 
鈴木商店が播磨船渠・鳥羽造船を買収し、播磨は船台を2台から5台に増築、鳥羽は木造船から鋼鉄船に変更しようとしている様子が記述されている。鈴木商店が、米国からの輸入鋼材を確保していたことも書かれている。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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神戸又新日報 1918.02.09(大正7)
軌道の要らぬ電車 : 本邦最初の新交通機関
 
唐端清太郎氏外八名が、山陽線那波停車場前から相生町へ電鉄を敷設する計画を提出した。実現していたら、日本最初のトロリーバスになっていた。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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神戸又新日報 1918.03.18-1918.03.22(大正7)
西播の港湾
 
港湾政策の立場から、岩見・室津・相生・那波・坂越・新浜・塩屋の港を考察した記事。
相生港は、「西播唯一の工業港」と評価され、唐端清太郎の活躍、播磨造船所の成り立ち及び極東硝子操業開始についての記述がある。那波港は、赤穂塩の鉄道への積み替え港とされ、浚渫が絶えず行われていたと記述されている。坂越港と奥藤家の保守的な姿勢も興味深い。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。 
 
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大阪朝日 1919.08.29(大正8)
職工も社員も同じ長屋に
播磨造船所の階級的待遇無差別と排温情主義
 
造船所の従業員は5000を越え、造船所は社宅を急増させた。社宅には、三間の職工社宅と門構えのある六間の社宅があるが。造船所は家賃さえ支払えば、職工・社員がどの社宅に住んでも構わないとしている。もっとも、職工で六間の社宅を選ぶ者はいないが。活気にわく相生の町、友愛会の進出、庶務課長北村徳太郎氏が友愛会機関誌の愛読者であること等を特派員がレポートしている。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。  
 
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大阪毎日 1919.09.14(大正8)
播磨造船臨時休業
技師職長を襲撃し多数の負傷者を出す
 
播磨造船所の職工が増給を要求、会社との交渉が不調におわると、職長・組長の部屋に押しかける騒ぎとなった。那波分署長は姫路署長に応援を依頼、神戸の本社から辻専務が出張するなど緊迫した事態が続いている。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。    
 
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大阪朝日 1920.02.06(大正9)
神戸の補助港たらんとする相生港
臨港鉄道敷設請願
 
播磨造船所の興隆によって相生町の人口は倍増し15000に達した。相生港をさらに発展させるためには、山陽線那波駅より相生町まで引込線を敷設する必要がある。薮谷より松の浦の間の県道の西側海面約一万坪を埋立て之れに充て尚荷揚場、貯蔵所を設置しようという計画である。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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大阪毎日 1920.05.14(大正9)
造船所職工結束して日用品不買の申合せ
原因は村税賦課から那波村の紛擾
     
那波村が造船所の職員職工に附加税が課税したことに、職員職工が反発、村長・議員の辞職を要求した。役員職工は結束して同村在住の販売屋理髪業女髪結は勿論新聞店に至るまで往復を遮断し一品の供給も受けないことにした。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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大阪時事 1921.02.08(大正10)
播磨造船の職工解雇
辻取締役より職工に窮状を訴う
 
播磨造船所は神戸製鋼所に併合する事に内定していた。その前提として、職工冗員の淘汰を断行することに決定し、播磨造船所では七日午後辻取締役が職工を招集、実情を語り職工五千名の中九百八十名を解雇することを発表した。涙金の額は、大阪鉄工所等より多い。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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大阪時事 1921.08.12(大正10)
経営せる播磨造船の職工に生活難の叫び
会社側は主脳者を解職す
 
神戸製鋼所の経営に移ると同時に播磨造船所の事業が縮小された。各工場の有志は馘首手当・工場委員制度の採用、 積立金の配当を行え等の要求案を提げ旗上をなさんとしたが、会社は約二十名を馘首した 
 
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大阪時事新報 1921.08.19(大正10)
播磨造船所の労働演説会
物々しい警戒裏に中止、中止で了る
 
赤穂郡相生町巴座に於て労働演説大会が開催された。播磨造船所の職工が不穏な折柄とあって、警察が会場内を警戒し、署長監視の下に播磨造船の労働組合長神野氏が開会の辞を述べた。 幸いに一人の検束者も出さなかったが、地方には珍らしい物々しい演説会であった。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。     
 
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神戸又新日報 1921.8.10(大正10) 
波斯石油積取 橘丸と満珠丸
帝国石油会社所属油槽船橘丸は、神戸の鈴木商店傭船として倫敦からアパータンへ直航した。播磨造船所で艤装中の姉妹船満珠丸は、九月上旬には鈴木商店の傭船として大連より豆油を積載、英国倫敦に向かう。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
 
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神戸新聞 1922.09.01(大正11) 謝っても買ってやらぬと愈よ鼻息が荒くなった女房連
播磨造船社宅の不買同盟 規約八箇条を設けて結束
 
古池の播磨造船所社宅七十五戸の主婦が、結束して同部落の売店四戸に対し不買同盟を実行し、他部落の売店矢野仙吉方から物資の購入することになった。矢面にたった四商店は手も足も出ない状態である。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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古墳時代 大避山古墳と若狭野古墳 [社会人のための高校日本史]

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    相生市北部 相生市南部
3世紀 邪馬台国 前方後円墳 大避山古墳  
4世紀      
5世紀 倭の五王 巨大な前方後円墳   塚森古墳
6世紀  横穴式石室へ    
7世紀 飛鳥時代  古墳と寺院の共存 若狭野古墳 那波野古墳
 
 
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矢野荘の中心部には、3世紀の大避山古墳と7世紀の若狭野古墳があります。古墳としては初期のものと末期のもので、古墳時代を通じてこの地域が大和政権と密接な関係を持っていたことがわかります。
 
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大避山古墳は3世紀の前方後円墳で、邪馬台国の時代にあたります。山の山頂部に築かれています。前方部の到着したところです。
 
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大避山古墳の竪穴式石室が陥没している部分です。
 
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那波野にある塚森古墳。前方後円墳の後方部が小さいホタテ型古墳です。周囲に濠をめぐらした、私たちが古墳といって思い浮かべるイメージに近い古墳です。
 
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若狭野陣屋の近くにある若狭野古墳。7世紀に築かれた方墳です。古墳としては最終期のもので、この時期に古墳を築くことを許されたのは、中央政府と何らかの関係を持った者に限られていました。初期の方墳はステータスが低いのですが、末期の方墳は円墳より高いステータスを示すそうです。

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「ゼロのちから」でワンコが元気に [でもでも教師日記]

ゼロのちからという酵素水がある。楽天やアマゾンでも販売されている
 
消臭、ペットケア、菜園の肥料と用途はいろいろ。ペットの臭いを消したいならスプレーする、元気にさせたいなら餌にかけて飲ませる。
 
我が家の柴犬は普段は庭にいて、食事のときは室内に飛び込んできた。ところが、彼女も老齢になり、跳びあがれなくなったので階段を作ってやった(右の方に見える)。
 
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ふと思いつき、私が飲んでいたゼロのちからをペットフードにかけてやった。しばらくすると、愛犬は元気になって、階段なしでも跳びあがれるようになり、町内の散歩にもついてくるようになった。尻尾も上げるようになった。素晴らしい。
 
半年余りで死んでしまったが、ワンコの半年は人間でいえば2年にあたる。健康寿命が2年伸びて、ピンピンコロリになったわけだ。再び、素晴らしいと書いておこう。
 
それまでは友人に勧められて半信半疑で飲んでいたが、愛犬をみて「効く」ことを確信した。アマゾンのページには「食べ物や人体に害はありませんが」(人間の飲用ではありません)と書いてある。したがって、飲むのはあくまで自己責任。何があっても自己責任。
 
私は愛犬が元気になったのを見て、自己責任で飲んでいる。効果があるのかないのかわからない。二年間、飲み続けているが悪いことは起きていない。家内も最近飲みだして「便秘によい。薬でなくて効果があるのがよい」と言っている(彼女は薬に不信感を持っている)。
 
私の仲間には飲んでいる人が何人もいる(私は彼らが飲み続けているのを半年以上見て、彼らが変調をきたさないことを確認してから飲み始めた)。便を柔らかめにするので、下痢気味の人で「私には向かない」と言った人を知っている。便秘気味の人は喜んでいる人が多い。
 
くりかえすが、あくまで、自己責任。
 
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2リットルのウォーターから100㏄を青いグラスに移し、透明カップのゼロのちからを100㏄加える。これで、20倍液になる。無色無味無臭なので、水を飲んでいるのとまったく同じように飲むことができる。
 
ゼロのちからがどのようにして作られているのか? 私の友人で見学に行った人がいる。健康おたくの人もいる。彼らの見解は「原理的には最善である」。人の飲用としては承認されていないので、くどいようですが、飲むのは自己責任。
 
とりあえず、鉢植えにかけてみるとか、生け花の水に加えてみるとか、して効果を確かめてみるとよい。
 
ここから、先は、あまり書いていない情報。
 
お風呂に入れるとか、菜園に撒くとか、大量に使う場合は、精製レベルの低いものがある。こちらは、飲んではいけません。入浴剤としては、活性水ではなく加工水を使う(お湯の感じはかわらない、これが臭いや色をつける入浴剤とまったく異なる)。活性水を使ってもよいが、割高になる。消臭になるらしいが、私は実感したことはない(この辺は人の感覚ですから)。

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矢野荘を舞台に日本史を学ぶ [社会人のための高校日本史]

WEBコミュニティ矢野荘

のどかな農村風景のパノラマ写真。矢野荘の中心部は一ヵ所に立ち止まって古代から近代まで、日本史のすべてを語ることができる希有なフィールドです。ワンストップ日本史とも言える地点で、日本でも数えるほどしかない恵まれたところです。

一枚の写真のなかに、

3世紀の初期前方後円墳 卑弥呼の時代
渡来人の秦河勝
奈良時代の条里制
平安時代の秦一族?の邸宅跡
美福門院の皇室領矢野荘と政所
地頭海老名氏と領家による下地中分
皇室から東寺への寄進

東寺と悪党寺田法念の戦い
東寺と農民の戦い 十三日講事件 逃散 一揆
中世の下土井城
赤穂浅野藩
旗本浅野家
作家水守亀の助の生誕地と私小説の舞台

と、古代から中世・近世・近代の日本史が重なり合って写っています。

エビデンスは東寺百合文書と浅野隼人家文書という一級品。

散住から集住へ、人々はいつ頃に村を形成したのか、というテーマもありますね

惣村に検地・村請制度が加わって、江戸時代の村に。高度経済成長までの日本の基本形、これを体感することなくして日本史はわかりません。

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矢野荘は中学生や高校生に日本史を教える最高のフィールドです。日本史を教える先生の研修のフィールドにも。

 

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下土井城が田植えをしたばかりの水田に写っています。山頂に中世の山城があります。堀切や郭がきれいに残っています。

若狭野陣屋

写真の場所から1㎞ほど西に、旗本浅野家の若狭野陣屋があります。元禄赤穂事件で赤穂藩が断絶した後、浅野家は陣屋を拠点として若狭野三千石を統治しました。1822年、家政改革で藩札を発行、札座は家政改革の拠点として建築されたと考えられています。


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社会人のための日本史講座プロローグ [社会人のための高校日本史]

社会人のための日本史講座
 
社会人のための日本史講座01
 
日本史を約四百年ずつ5つの時期に分けて日本史を概観してみます。それぞれのサイクルは、人口変動 → 人口静止(文化の発展)→ 新たな変動 で構成されています。
 
このグラフの前に長い縄文時代があります。縄文時代は狩猟採集経済でしたが、暖かかった時代で、人口は東日本の方が多いという特徴があります。
 
縄文末期、寒冷化して人口が急減しますが、稲作が伝来して人口は増加基調に戻ります。稲作伝来以来、急激な人口減はなく、生活が安定したことがわかります。一方、農耕システムを稼働させる大規模な組織が必要になり、やがて統一政権へと向かいます。
 
 
 
Ⅰ  200~ 600  邪馬台国から聖徳太子まで
 
小国家が徐々に統一され邪馬台国が成立します。耕地の開発が行われ、権力者が古墳を作り権力を誇示しました。
 
相生では、大避山古墳(初期の前方後円墳)→ 塚森古墳(前方後円墳) 
 → 那波野古墳(横穴式石室の円墳) → 若狭野古墳(方墳)等があります。
 
古墳時代、巨石信仰が始まりました。相生には、巨石信仰として磐座神社と瓜生羅漢石仏があります。
 
600年頃,中国から統一的な政治システム(律令制)と統一的な世界観(仏教)が伝わりました。聖徳太子がこれらの導入を図り、天武天皇によって律令国家が成立します。
 
相生では、秦河勝が漂着して神になったという伝承があり、秦氏による開発が進みました。若狭野に条里制が保存されています。
 
 
Ⅱ 700~1100  律令制(公地公民) 
 
土地は原則国有で、所有権(使用権)を政府が保証しました
口分田は、男2段、女は男の三分の二、四人家族で口分田は6~7段
税は租庸調と雑徭+兵役(人に課税 物と労働で納める)
水利など農耕施設の管理は政府が行う
 
900年頃(平安時代中期)、班田収授をあきらめ、国司が公地(国衙領)を管理するようになります。国司は国衙領を田堵(農園経営者)に経営させ税を納めさせました。税は土地に課税する
 
900~1100 人口静止期で、国風文化が発展しました・・A
       紫式部の源氏物語 仮名文字 和歌
 
相生では、秦内麿が三濃山求福教寺を建立しました
     秦為辰が久富保を開発し、国司の藤原顕季に寄進しました
 
1100年代 鳥羽上皇が皇室に荘園を集中させる方針をとります
 
相生では、皇后美福門院が相生市全域を皇室領矢野荘にしました
 
 
Ⅲ 1200~1600 荘園公領制  公有地(公領)と私有地(荘園)
 
この時代の特徴は、土地所有権を政府が統一的に保証する制度がないことです
各自が土地の所有権と収益権(職 しき)を確保しなければなりません
例 本家職・領家職・公文職・地頭職・名主職
 
鎌倉末期、水利の管理を農民が行うようになります 
→ 農民は集まって住み、共同して農作業をするようになりました(惣村)
 
相生では、鎌倉時代は皇室領矢野荘に地頭海老名氏が赴任してきます
鎌倉時代末期、矢野荘で下地中分が行われます
その後、領家方が東寺領になり、東寺百合文書に記録が残りました
 
1400~1500 人口静止期に入り、足利義政の東山文化が発達します・・B  
       能楽・茶道・書院造
 
1500年代 戦国大名が直に土地を把握しようとし、豊臣秀吉の太閤検地で完成します
 
 
Ⅳ 1600~2000 幕藩体制  土地は私有地 所有権を政府が保証
 
兵農分離 武士は城下町に集住 兵役の義務
     百姓は村請制で年貢を負担します
 
1600~1700 新田開発と人口急増
1700~1850 人口静止期に元禄文化・化政文化が発達します・・C
       歌舞伎・文楽・俳句
 
相生は、初め浅野赤穂藩、中期以降は天領・旗本浅野領・森赤穂藩領に三分割されました
旗本浅野家の若狭野陣屋と浅野隼人家文書が現存しています
 
1900年代  資本主義と高度経済成長 都市への人口移動 高齢化による村の衰退
     → 地縁・血縁の崩壊 グローバル化 
     コンテナ船→物流の壁がなくなる ネット→情報の壁がなくなる
 
地縁血縁の共同体が解体するなか、人の新しい結びつきが模索されています
一方で、唯一信頼できるものとして家族が重視されるようになっています
 
戦前の日本は江戸時代のムラ社会を基盤としていました。戦後、日本国憲法と象徴天皇制が導入され、高度経済成長が実現しました
 
2000年代 日本を近代化しようとする日本国憲法と、近代化に抵抗する改憲勢力の争いが続いています
 
 
Ⅴ 2000~2400 未来の日本は?
 
四人家族を維持できる社会システムを構築できるか
農村共同体が解体したあと、人々は何で結びつくのか
日本は近代(自立した個人による社会)を実現できるか
 
西欧・北米発祥の個人主義+民主主義 あるいは
中国発祥の家族主義+科挙主義 のどちらを選択するか

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高等学校の思い出話 [でもでも教師日記]

30年も前の地方の公立進学校の想い出話をしたい。
 
この学校、いやなところも多々あったが、良い学校だった。なにより良いのは「国公立合格がすべて」ということで、評価基準が学校の外に毅然として存在していたことである。学年団の教師は「うちの学年は何人合格させたか」を競い、生徒は受験だけを目標に頑張り、町の人たちは「あの学年は進学実績のある先生が揃っている」という評価をする。
 
通知簿の成績なんて誰も気にしない。成績は5でも3でも良いのである。京大も神大も入試の得点が全てで、高校の成績がオール5で当日の得点が600点の受験生より、高校の成績がオール3で当日の成績が601点の受験生の方が合格するルールになっていた(この入試のルールは公平で正しい。「人柄より偏差値」である)。
 
授業中に寝ていようが、内職をしようが、それは自己責任、すべては入試が判定をくだす。スヤスヤお眠りしている生徒の傍で「昨晩頑張ったので眠いんでしょうね」と教師は言い、生徒は笑って「ほっといて授業を進めましょう」というカラッとした校風だった。
 
「本校は灰スクールではない、真っ黒である。君たちの高校生活に楽しいことは何もない」と学年主任は広言し「こんな学校にいたってしょうがないから、さっさと大学に進学しよう」と生徒は受験勉強にいそしんでいた。
 
これは、私が教師として勤めていた1980年代のことで、私が生徒であった1960年代は成績順にクラスが編成されていて模試の成績が廊下に張り出されていた。その後、人権教育の高まりとともに掲示はなくなったのだが、1980年代になっても「スポーツの一位は表彰するのに、勉強の一番を掲示するのが何故悪い」と息巻く古参教師は多かった。
 
私の生徒時代でもそれ以前に比べれば、ずいぶんマシになっていたらしく、1960年頃は「アホはカシコの邪魔すな」という雰囲気だったらしい。
 
それでも、ナンダンカンダ言っても、この学校の卒業生はこの学校が好きである。「アホはカシコの邪魔すな」と言われたことがあると、自称アホであったという先輩が嬉しそうに私に語ってくれた。
 
受験で勝ちたいという気持ちは教師・生徒が共有していて、戦場は大学入試、敵は他校生なのだから、基本的に学校の構成員は全員がウィンウィンの関係にあったからである。
 
この学校、学年ごとに校舎が分かれていた。校則も細かいところは校舎によって違うのである。A学年主任曰く「始業の5分前の予鈴までに登校しろ」、B学年主任曰く「予鈴は予鈴、本鈴までに教室に入ればよいのだ」。
 
二年生が予鈴にあわせて教室へと走るそばを、一年生がダラダラ歩いて行く。ついに、二年の生徒代表が「一年と二年で始業が異なるのはおかしい」と抗議した。A学年主任曰く「それが人生だ」、生徒代表は深くうなずく「なるほど、それが人生というものか」
 
この学校に教師として勤めて印象に残っているのは「統一見解は?」なる愚問を聞いたことがないことだ。その後、神戸に転勤してきたが「学校としての統一見解を」と質問する教師が多いことに辟易している。そんなことくらい自分の頭で考えろよ。高校生でも考えるぞ。
 
私が担任していた生徒は「あの先生の授業を聞くまではわかっているんですけど、授業を聞くとわからなくなるので聞かないようにしているんです」という名言を吐いた。
 
担任として返す言葉もなかったが、その先生が授業をしたからと言ってクラスの点が悪いわけではないのである。きっと賢い生徒たちは自助努力でカバーしていたのだろう。授業はだめでも自分で何とかしなくっちゃ!と自覚させたのなら、それもまた教育なのかも知れない。
 
学校なんて、生徒さえよければどうにでもなるという話である。
 
この学校のことを語ると楽しい。私にとっては、とても面白い学校だった。
 
今でも、あのバカバカしいほどのアッケラカンさは続いているのだろうか?それとも、普通の学校に成り下がってしまったのだろうか?

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