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若狭野陣屋(浅野陣屋) [旗本浅野家若狭野陣屋]

 
 
若狭野陣屋
 
旗本三千石浅野家の若狭野陣屋。後方の桜の辺りまでが陣屋跡です。
 
前方の建物は札座。江戸時代後期、藩札(札切手)の発行を含む所領統治の役所として建てられました。江戸時代後期、各地の旗本が家政改革を行いました。若狭野浅野家も1822年に藩札を発行するなど家政改革に取り組んでいます。
 
江戸時代、一万石を超える大名が200家、3000石~5000石の大身旗本が200家ありました。大名の城跡や陣屋跡は多くが保存されていますが、大身旗本の陣屋跡で残るものはそれほど多くはありません。
 
若狭野陣屋は敷地全体が残っているうえ、江戸時代後期の建築物(札座)が残っています。旗本陣屋の陣屋門は各地に残りやすいのですが、札奉行が政務をとった役所として使われた建築物は全国でこれ一つかも知れません。地味な建物ですが、歴史的に貴重なものです。
 
若狭野陣屋
  
札座の西に、かつての陣屋門に続く道があります。左手の広場は年貢を納める場所でした。
 
江戸時代、大身旗本は江戸に住み幕府で奉行職などに就きます。当主が所領に帰ることは稀で、在地の家臣が統治にあたりました。若狭野陣屋には、北部に御殿屋敷と家老屋敷があり、江戸時代後期に南部の札座が増設されています。

若狭野陣屋
 
陣屋門跡を通り、陣屋中心部に着きました。ここには二棟の建物がありました。明治維新で当主の浅野長発が土着したとき、御殿屋敷を改築し家老屋敷を建て替えています。
 
しかし、明治30年代に浅野家は陣屋を去ります。1942(S17)年、陣屋の北半分は浅野家から若狭野地区に寄付されました。御殿屋敷跡は広場になり、北辺に稲荷神社・須賀神社・薬師堂があります。中央は若狭野須賀神社で、昭和前期に陣屋内に移転してきました。薬師堂も移転してきたものです。
 
若狭野陣屋
 
左は稲荷神社。稲荷神社は浅野家の守護神で、江戸時代から若狭野陣屋のなかに祀られていました。中央は須賀神社と絵馬堂。右手に薬師堂があります。薬師堂は、和泉式部が小式部内侍を探して若狭野に来たときに残したという守本尊を祭っています。
 
若狭野陣屋の推移
 
旗本浅野家が成立した頃の陣屋は、紫の位置にあり、小規模なものでした。本家の赤穂藩が若狭野を含めて統治していましたから、陣屋は長屋がある程度でよかったのです。
 
1701年、浅野内匠頭の刃傷事件で浅野赤穂藩は断絶します。旗本浅野家は所領を統治するために陣屋を白四角の位置に移転し拡張しました。
 
19世紀になると家政改革が必要となり、藩札の発行など統治の強化を図ります。藩札の札元は大坂天王寺屋でした。陣屋南部、赤丸の場所に札座が建築され、札座の向かいに天王寺屋の屋敷が建てられたと推定します。
 
浅野赤穂藩が断絶したとき、赤穂藩江戸屋敷から旗本浅野家が受け継いだ文書群(浅野隼人家文書)が2006年に発見され、研究が進んでいます。左は江戸時代中期、右は明治初期の若狭野陣屋の絵図です。
 
水色の丸が御殿屋敷、赤色の丸が札座です。江戸時代後期から明治維新にかけて陣屋が拡張されたことがわかります。
  
若狭野陣屋

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残念な教員 学校教育の失敗学 [でもでも教師日記]

文化祭の古本市で買いました。
 
読み始めて「息苦しい」、読む気力が続きません。で、パラパラと斜めに目を通すと、「教員は受験勉強もできない」と教員養成学部出身者を切り捨て、かえす刀で「難関学部出身の人は、受験勉強ができる。受験勉強で好成績を残せたのであれば、指導もできる・・・しかし、彼らは教育への情熱が薄く、教育技術も低い傾向にある」。
 
ウーン、林純次さん、職場でどんな人間関係を作っているのでしょう。心配。それはさておき「受験勉強で好成績を残せたら、受験指導もできる」というロジックがわかりません。受験指導はそんなに簡単なものではありませんが、かといって、普通の大学出身でも研鑽しだいで東大受験生の指導ができます。しょせん、高校レベルですから。
 
なにより、受験するのは生徒なのです。優秀な生徒は教師の受験指導のレベルを軽々と超えていきます。
 
教育学部の例として、東北大、京都大の偏差値が掲載されているのは不可解ですね。こういう大学の教育学部は偏差値は高いし、そもそも教員養成のための教育学部ではありません。51頁に掲載されている、この表を見て、読み続けるのをやめてしまいました。
 
この本、他の人の読後感はどうなのだろう?と思ってググってみました。
 
ゆっくりゆっくりさんは「書かれていることは反論することは何もないです。しかし、私が感じた違和感は何なのか」。違和感を感じておられます。反論することは何もない、というほどの本ではないですよ。違和感に自信をもちましょう。
 
国語科教員の部屋さんは「言いたいことはわかるけれども、こんなに頑張っているのになんでわかってくれないの、という暑苦しい教員の典型です」。この人、文章、上手です。私と違って最後まで読み通したようなので、国語科教員の部屋さんのリンクを読んでください。私もこういうタッチの文章を書けたらなあと思います。

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荘園ツーリズム [皇室領矢野荘]

荘園は中世日本を構成する地域的まとまりです。平安時代に始まり、院政期に皇室や摂関家・大社寺が所領として拡大しました。
江戸時代の城下町に対し、鎌倉・室町時代を代表する遺跡が荘園で、水田をはじめ、神社や山城が時を超えて伝えられています。
 
荘園を楽しむには、少々知識が必要です。
千年前の日本に思いを馳せ、荘園ツーリズムに旅立ちましょう。 
 
東日本の荘園
陸奥国 骨寺村荘園 
岩手県一関市
中尊寺領 
鎌倉時代の景観が現存する遺跡
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上野国 新田荘 
群馬県太田市
源氏領 
中世武士団新田氏一族の根源地として成立した
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上総国 藻原荘 
千葉県茂原市
興福寺領 
奈良時代に成立した初期荘園、上総介藤原黒麻呂が開墾した
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越中国 般若野荘 
富山県砺波市・高岡市
徳大寺家領 
東大寺領井山・伊加流伎・石粟の3荘が衰退したあとに成立した
wikipedia
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能登国 若山荘 
石川県能登町
皇室領 
能登国珠洲(すず)郡の大半を占める巨大な中世荘園
​奥能登を歩く若山荘
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能登国 町野荘 
石川県能登町
領 
奥能登の中山間に位置し、能登国では若山荘に次ぐ大規模な荘園
​奥能登を歩く町野荘
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越前国 道守荘 
福井県足羽郡
東大寺領 
8世紀、東大寺の経済的基盤確立のため全国的に設定された初期荘園の一つ
 
 
近畿の荘園
和泉国 日根荘
大阪府泉佐野市
九条家領 
「日根荘大木の農村景観」が文化財保護法による重要文化的景観に選定
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摂津国 猪名荘 
兵庫県尼崎市
東大寺領 
8世に成立、神崎川河口の海岸部に堤防を築き、徐々に耕地を開発した
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播磨国 矢野荘 
兵庫県相生市
皇室領 
皇后美福門院が立券した領域型荘園、同じ領域が相生市として存続している
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播磨国 鵤荘 
兵庫県太子町
法隆寺領 
斑鳩寺は政所の業務と布教の拠点である。荘園境界を示す牓示石がある
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播磨国 大山荘 
兵庫県篠山市
東寺領 
空海の死後、綜芸種智院を売却した代金で土地を購入し、845年に成立した
wikipedia
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紀伊国 桛田荘 
和歌山県かつらぎ町
神護寺領 
鎌神護寺とかつらぎ町の宝来山神社に残る絵図が教科書に掲載される
wikipedia
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紀伊国 官省符荘
和歌山県橋本市・九度町
金剛峯寺領 
巨大な領域型荘園で、金剛峯寺が直務支配を確立し、高野山と一体化した
​荘園遺跡
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伊賀国 黒田荘 
三重県名張市
東大寺領 
奈良時代、孝謙天皇より東大寺に寄進された板蠅杣が拡張して荘園が成立
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若狭国 太良荘  
​    
福井県小浜市
東寺領 
東寺百合文書に多くの史料が残る
中世史における代表的な荘園の一つ
​太良荘
 
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西日本の荘園
伯耆国 東郷荘 
鳥取県湯梨浜町
松尾大社領 
下地中分の絵図は荘園の盛衰を示すものとしてたびたび教科書に掲載される
 
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備中国 新見荘 
岡山県新見市
最勝光院領→東寺領 
たまがき書状が国宝に指定された
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備後国 大田荘 
広島県世羅郡
高野山領 
寄進地系荘園から始まり、一円支配の中世荘園に成長、尾道が積み出し港
wikipedia
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伊予国 弓削島荘 
愛媛県上島町
皇室領 
「塩の荘園」として著名。1981年、皇太子が荘園研究のために島を訪れた
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土佐国 幡多荘 
高知県四万十市・土佐清水市
一条家領 
13世紀に成立、1468年、前関白一条教房が下向して中村に居館を設けた
wikipedia
​四万十市観光情報
 
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豊前国 田染荘
大分県豊後高田市
宇佐神宮領 
「田染荘小崎の農村景観」が国の重要文化的景観として選定されている
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肥後国 鹿子木荘 
熊本県熊本市
皇室領 
代表的な寄進地系荘園として教科書に多く取り上げられてきた
東寺百合文書に資料が残る
wikipedia
​​
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日向国 島津荘 
宮崎県都城市
近衛家領 
日向・大隅・薩摩の三ヶ国にまたがる日本最大の荘園
wikipedia

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教科書が説明する荘園 [皇室領矢野荘]

高校日本史の教科書では、荘園をどのように説明しているのでしょうか。手近にあった四社六冊の教科書を読んで、適当にまとめてみました。
 
 ​
奈良時代の初期荘園
 ​
政府は人口増加による口分田の不足を補うため、743年、墾田永年私財法を発し、開発した田地の私有を保障した。東大寺などの大寺院は、広大な原野を独占し、国司や郡司の協力のもとに、付近の農民や浮浪人らを使用して原野の開墾を行った。これを初期荘園という。
 
8~9世紀に生まれた初期荘園は、律令国家の地方支配機構である国衙制に依存して経営されていたので、その多くが10世紀までに衰退していった。
​ 
 
平安時代の寄進地系荘園
  
班田収授が行われなくなると、口分田は国司のもとで国衙が管理するようになった。これを国衙領という。10世紀後半、国衙は田地を拡大するため、開発領主に臨時雑役免除などの便宜をはかった。開発領主の多くは国衙の在庁官人になったが、一部は所領を中央の権力者(領家・本家)に寄進して荘官となった。
 
こうした荘園は寄進地系荘園と呼ばれ、11世紀後半に各地に広がった。荘園は課税対象であるが、寄進地系荘園のなかから権力者の権威を背景に税の免除(不輸)を承認してもらう荘園が現れてくる。
  
 
後三条天皇の荘園整理令​
​ 
平安時代の国司は中級貴族が任命される。中級貴族は国司となって財をなすことを望んでいた。国司は税率を決定する権限を持ち、徴税請負額を政府に納める義務を負った。国司の収入は実際の徴税額から請負額を差し引いたものになる。
 
不輸の荘園が増えると、上級貴族や大社寺の収入が増えて、国司(中級貴族)の収入が減少する。1069年、国司の支持を受けた後三条天皇は荘園整理令を出し、基準にあわない荘園を停止した。摂関家や大社寺の荘園も例外ではなく、整理令は成果をあげた。
 
荘園整理によって、国司の支配する公領と、貴族や大社寺が支配する荘園の区別が明確になった。この時点では、公領が多くの部分を占めていた。一方、整理令で基準が明示された結果、整理されなかった荘園の法的根拠は強化された。
 ​
 
鳥羽上皇の方針転換
  
白河上皇は国司を支持勢力に取り込んで院政を始め、荘園整理の方針を受け継いだ。ところが、鳥羽上皇は荘園を積極的に認める方針に転換する。天皇家には荘園の寄進が集中し、摂関家や大寺院への寄進も増加した。不輸・不入の権を持つ荘園が増加し、荘園の独立性が強まった。
 
鳥羽上皇が集めた荘園群(八条院領)は大覚寺統に受け継がれ、後白河上皇が集めた荘園群(長講堂領)は持明院統に受け継がれた。
​ 
 
領域型荘園
 
もう少し踏み込んだ記述をしている教科書では「領域型荘園」という言葉が使われている。
 
白河天皇は荘園整理政策を継承したが、上皇となって院政を始めると、次々と寺院を建立し、その運営費用をまかなうために荘園を新設した。院と関係の深い貴族から所領が寄進され、国司の協力も得て広大な領域の荘園(領域型荘園)が立荘された。
 
12世紀前半の鳥羽院政期にかけて、院・摂関家・有力寺社の領域型荘園が、院権力の主導のもとにつくられ、中世荘園が確立した。領域型荘園では、荘民は租税をすべて荘園領主に納めるようになった。
 
公領でも開発領主の所領化が進み、全国の土地は同じような性格をもった荘園と公領に編成された。荘園公領制は中世の土地制度の基本となった。
 ​
教師用資料として配布された鎌倉佐保先生の解説です
 
 
中世は荘園公領制の時代
 ​
現在の教科書は、後三条天皇の荘園整理によって荘園が合法化され、鳥羽上皇の荘園拡張政策の結果、荘園公領制が成立して中世が始まると説く。そして、院政・鎌倉幕府・南北朝・室町幕府を中世でひとまとまりにする。
 
荘園は応仁の乱頃から解体が始まり、戦国時代に実質的に消滅、太閤検地で名実ともに消滅する。そして、検地による土地制度の時代=近世(豊臣政権から江戸時代)が幕を開ける。

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官民が協働した取組ができれば [浅野陣屋2016]

2016年8月の相生市の議会だよりに、浅野陣屋の写真が掲載されています。それから、まもなく一年ですが、つらつら読み直してみると
  
宮艸議員の質問に対する答弁は
「地域や所有者、行政の枠組みだけでは限界があり」
「将来的には広く官民が協働した取組みが出来ればよいと考えています」
となっています。
 
エーッ!!!
所有者がその気になって、兵庫県の古民家再生支援事業の再生提案まで準備したのに、「そういう制度が迷惑なんです」と言ったのはどなたでしたっけ
 
将来的には・・・・ 
= 今は(しない)・・・・
官民が協働した取り組み・・・・
= 民はやる気だけれど官が・・
ということですかねえ?
 
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歴史総合新設より日本史世界史必修に [でもでも教師日記]

高校に歴史総合という科目の新設が予定されている。
 
現在、世界史が必修で日本史・地理が選択になっている。日本史を学ばなくても卒業できるのはおかしいという意見があり、歴史総合で日本史と世界史をミックスして学び、その後、日本史・世界史・地理を選択させるという発想らしい。
 
高校の教員からみると「またか」とうんざりさせられる光景である。
 
1960年代、地理・日本史・世界史はすべて必修であった。ところが、現代社会で入門編を学んでから選択させるという方針で現代社会が導入され、日本史・世界史・地理は選択になった。
 
すると、世界史選択者が減ってしまい、「国際時代を迎えて世界史を学ばないのはおかしい」と言って世界史を必修にした。世界史を必修にした結果、地理・日本史のどちらかは選択しないことになる。日本史・世界史の両方を必修にすると時間が足らないので歴史総合を新設しようというのだろう。
 
こういう、ハイブリッドタイプで単位の少ない科目が上手くいくことはない。40年前に導入された現代社会は今に至るもまともな科目扱いされておらず、高校現場に現代社会の専門家はいない。
 
本来、日本史・世界史・地理は必修だったのだから、3科目とも必修に戻せば良さそうなものだが、それはできない事情がある。根本的な原因は、授業時間数の減少である。
 
50年前、一週間は34コマ、3年間で102コマであった。ところが、週5日制で週に4コマ減って30コマ、3年間で90コマになった。さらに、情報で2コマ、総合学習で3コマ消費するので、85コマになる。
 
総コマ数が減っているので、社会科に割り当てられるコマ数が減る。減ったコマから現代社会に2コマを割く。だから、50年前には実現できていた日本史・世界史・地理の必修が不可能になった。
 
こうした根本原因から目をそむけて、社会科のなかをいじりまわす。愚かなことである。今でも中学校の社会科の歴史が日本史中心になっていて、世界史の知識がない生徒たちが高校に入学してくる。この生徒たちに「歴史総合?」。何を考えているのやら。
 
この原因は、大学の先生たちが高校社会科をいじくりまわすところにある。日本史業界・世界史業界・地理業界の先生たちの勢力争いである。
 
大学の先生は、歴史の一分野を深く研究しているが、世界史全般・日本史全般を研究しているわけではない。ましてや、日本史も世界史も地理も含む社会科を担当したこともない。彼らは社会科の専門家ではないのである。専門家でない人たちがいじくりまわすので、いじればいじるほど現場は混乱する。これが、高校社会科の現状。
 
そうそう、かつての社会科は地歴科・公民科に分割されている。一年の現代社会は公民科、なので地歴科の免許しかない先生は一年生の担任ができない。社会科を地歴科・公民科に分割した人たちが高校現場に無知であることが、この一事に露呈している。
 
それでは、私が解決案(日本史・世界史・地理すべて必修)を示す。生徒の週5日制と教育労働者の週休2日制には別個の問題である。そこで、教師の定数を2割増やして土曜も6時間授業をする(スーパーが交代勤務で年中無休にしているのと同じ原理)。次に、高校の校舎をエアコン完備にして夏休みを短縮する。これで、授業時数が確保できたので、日本史・世界史・地理をすべて必修にする。現代社会は廃止する。歴史総合は作らない。
 
1960年代の日本史・世界史・地理すべて必修時代を経験した人たちは、まもなく教育現場を去る。
 
この半世紀、社会科は授業時数の減少と選択科目やハイブリッド科目の増加でぐちゃぐちゃになってしまった。社会科を日本史・世界史・地理・倫社・政経の必修というシンプルなスタイルに戻して安定させる。そのうえで、高校の先生と大学の先生が協働して各科目の内容を熟成する。
 
どの科目を必修にするのか?という迷いは捨てなければならない。

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新聞で読む戦前の相生 [進水記念絵葉書]

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第一次世界大戦中、鈴木商店が播磨造船所を拡張し、従業員のための社宅を建てました。造船所の従業員は、社員と職工に分かれており、社宅も一戸建ての社員社宅と長屋の職工社宅がありました。
 
大阪朝日新聞 1919.08.29(大正8)の記事はこう伝えています。
「社宅には、三間の職工社宅と門構えのある六間の社宅があるが。造船所は家賃さえ支払えば、職工・社員がどの社宅に住んでも構わないとしている。もっとも、職工で六間の社宅を選ぶ者はいないが。」
 
神戸大学電子図書館システム新聞記事文庫で、相生関係の記事を探しました。
リンクから新聞記事を読みますと、大正時代の相生の雰囲気が伝わってきます。
 
神戸大学電子図書館システム新聞記事文庫で読む相生  大正時代  
 
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大阪毎日新聞 1915.05.07(大正4)
相生と坂越の将来
 
相生港が造船所とともに発展していることを報じ、「那波と相生は同心異体の間柄である。殊に其築港計画が那波と相生の中間に起さるるの関係上、将来は那波も相生も連接合併して大なる市街を建設すべき運命に在るものと予想せねばならぬ」と結んでいる。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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神戸又新日報 1917.7.28(大正6)
鈴木造船大拡張
 
鈴木商店が播磨船渠・鳥羽造船を買収し、播磨は船台を2台から5台に増築、鳥羽は木造船から鋼鉄船に変更しようとしている様子が記述されている。鈴木商店が、米国からの輸入鋼材を確保していたことも書かれている。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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神戸又新日報 1918.02.09(大正7)
軌道の要らぬ電車 : 本邦最初の新交通機関
 
唐端清太郎氏外八名が、山陽線那波停車場前から相生町へ電鉄を敷設する計画を提出した。実現していたら、日本最初のトロリーバスになっていた。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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神戸又新日報 1918.03.18-1918.03.22(大正7)
西播の港湾
 
港湾政策の立場から、岩見・室津・相生・那波・坂越・新浜・塩屋の港を考察した記事。
相生港は、「西播唯一の工業港」と評価され、唐端清太郎の活躍、播磨造船所の成り立ち及び極東硝子操業開始についての記述がある。那波港は、赤穂塩の鉄道への積み替え港とされ、浚渫が絶えず行われていたと記述されている。坂越港と奥藤家の保守的な姿勢も興味深い。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。 
 
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大阪朝日 1919.08.29(大正8)
職工も社員も同じ長屋に
播磨造船所の階級的待遇無差別と排温情主義
 
造船所の従業員は5000を越え、造船所は社宅を急増させた。社宅には、三間の職工社宅と門構えのある六間の社宅があるが。造船所は家賃さえ支払えば、職工・社員がどの社宅に住んでも構わないとしている。もっとも、職工で六間の社宅を選ぶ者はいないが。活気にわく相生の町、友愛会の進出、庶務課長北村徳太郎氏が友愛会機関誌の愛読者であること等を特派員がレポートしている。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。  
 
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大阪毎日 1919.09.14(大正8)
播磨造船臨時休業
技師職長を襲撃し多数の負傷者を出す
 
播磨造船所の職工が増給を要求、会社との交渉が不調におわると、職長・組長の部屋に押しかける騒ぎとなった。那波分署長は姫路署長に応援を依頼、神戸の本社から辻専務が出張するなど緊迫した事態が続いている。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。    
 
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大阪朝日 1920.02.06(大正9)
神戸の補助港たらんとする相生港
臨港鉄道敷設請願
 
播磨造船所の興隆によって相生町の人口は倍増し15000に達した。相生港をさらに発展させるためには、山陽線那波駅より相生町まで引込線を敷設する必要がある。薮谷より松の浦の間の県道の西側海面約一万坪を埋立て之れに充て尚荷揚場、貯蔵所を設置しようという計画である。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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大阪毎日 1920.05.14(大正9)
造船所職工結束して日用品不買の申合せ
原因は村税賦課から那波村の紛擾
     
那波村が造船所の職員職工に附加税が課税したことに、職員職工が反発、村長・議員の辞職を要求した。役員職工は結束して同村在住の販売屋理髪業女髪結は勿論新聞店に至るまで往復を遮断し一品の供給も受けないことにした。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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大阪時事 1921.02.08(大正10)
播磨造船の職工解雇
辻取締役より職工に窮状を訴う
 
播磨造船所は神戸製鋼所に併合する事に内定していた。その前提として、職工冗員の淘汰を断行することに決定し、播磨造船所では七日午後辻取締役が職工を招集、実情を語り職工五千名の中九百八十名を解雇することを発表した。涙金の額は、大阪鉄工所等より多い。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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大阪時事 1921.08.12(大正10)
経営せる播磨造船の職工に生活難の叫び
会社側は主脳者を解職す
 
神戸製鋼所の経営に移ると同時に播磨造船所の事業が縮小された。各工場の有志は馘首手当・工場委員制度の採用、 積立金の配当を行え等の要求案を提げ旗上をなさんとしたが、会社は約二十名を馘首した 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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大阪時事新報 1921.08.19(大正10)
播磨造船所の労働演説会
物々しい警戒裏に中止、中止で了る
 
赤穂郡相生町巴座に於て労働演説大会が開催された。播磨造船所の職工が不穏な折柄とあって、警察が会場内を警戒し、署長監視の下に播磨造船の労働組合長神野氏が開会の辞を述べた。 幸いに一人の検束者も出さなかったが、地方には珍らしい物々しい演説会であった。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。     
 
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神戸又新日報 1921.8.10(大正10) 
波斯石油積取 橘丸と満珠丸
帝国石油会社所属油槽船橘丸は、神戸の鈴木商店傭船として倫敦からアパータンへ直航した。播磨造船所で艤装中の姉妹船満珠丸は、九月上旬には鈴木商店の傭船として大連より豆油を積載、英国倫敦に向かう。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
 
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神戸新聞 1922.09.01(大正11) 謝っても買ってやらぬと愈よ鼻息が荒くなった女房連
播磨造船社宅の不買同盟 規約八箇条を設けて結束
 
古池の播磨造船所社宅七十五戸の主婦が、結束して同部落の売店四戸に対し不買同盟を実行し、他部落の売店矢野仙吉方から物資の購入することになった。矢面にたった四商店は手も足も出ない状態である。 
 
この記事は、神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で読むことができます。
 
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歴史総合? [700文字のエッセイ]

歴史総合が新設される。現在、世界史が必修で日本史は選択、日本史が選択なのはおかしいという意見があり、歴史総合で教えてから、日本史・世界史・地理を選択させるらしい。
 
「またか」とうんざりする光景である。1960年代、3科目はすべて必修であった。1970年代、現代社会を新設して、日本史・世界史・地理を選択にした。すると、世界史選択者が減ってしまい「国際化時代を迎えて世界史を学ばないのはおかしい」と世界史を必修にした。今度は日本史を必修にしたいが、両方を必修にすると時間が足らないので歴史総合を新設しようというのだろう。
 
3科目とも必修に戻せば良さそうなものだが、それはできない。根本的な原因は授業時間数の減少。週5日制で週に4コマ、3年間で12コマ減り、さらに、情報で2コマ、総合学習で3コマ消費する。総コマ数が減っているのだから、社会科のコマ数も減る。減ったコマから現代社会に2コマを割く。だから、50年前には実現できていた日本史・世界史・地理の必修が不可能になった。
 
こうした根本原因から目をそむけて、社会科のなかをいじりまわす。愚かなことである。その理由は大学の先生たちにある。日本史業界・世界史業界・地理業界の先生たちの勢力争い。大学の先生は歴史の一分野を深く研究されているが、社会科の専門家ではない。専門家でない人たちがいじくりまわすので、いじればいじるほど状況は悪くなる。
 
解決案は、日本史・世界史・地理すべて必修。教師の定数を2割増やして土曜も6時間授業。高校の校舎をエアコン完備にして夏休みを短縮。現代社会は廃止、歴史総合は作らない。日本史・世界史・地理・倫社・政経の必修というシンプルなスタイルに戻して安定させる。そのうえで、高校と大学の先生が協働して科目の内容を熟成する。どの科目を必修にするのか?という迷いから覚めなければならない。

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