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古墳時代の巨石信仰 [社会人のための高校日本史]

古墳時代は巨石信仰の時代でもありました。人々は巨大な岩に神が宿ると考え、ご神体として祀ったのです。
 
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磐座神社の北に並ぶ高厳山・権現山・龍王山を矢野の神山と呼びます。
 
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矢野荘の鎮守磐座神社、境内に光座石があります。
 
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羅漢渓谷、寄り添う巨岩の間を登っていくと岩窟に瓜生の羅漢石仏があります。百済から渡来した恵便・恵聡が刻み、秦河勝が二師を訪ねたという伝承があります。学術的には、室町時代の作品とされています。

タグ:石仏 羅漢 瓜生
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若狭野陣屋を紹介した新聞記事 [旗本浅野家若狭野陣屋]

若狭野陣屋の札座

 

2016年に若狭野陣屋に残る札座の保存運動を始めました。これを紹介してくださった新聞記事は三つあります。

 

朝日新聞【はりま歴史探訪】 拠点に残る「札座」若狭野浅野家の陣屋跡

朝日新聞が浅野陣屋を紹介した記事です。コンパクトでありながら、基本的なデータがすべて書いてあります。

若狭野浅野家の紹介に始まり、札座、浅野家文書発見の経緯、文書の内容、資料展と進みます。

最後に『陣屋跡に残る「札座」の保存運動も始まった。活動する「浅野陣屋札座保存ネットワーク」の松本恵司代表は「重要な文献が見つかり先端研究が進んでいるのに、その舞台が消えるのはもったいない。保存と活用を」と呼びかけている』と私たちの活動について触れています。

文字数から考えて内容をここまで整理して記述した新聞記事は珍しいと思います。さすが、朝日新聞です。

 

赤穂民報 若狭野浅野家の旧札座で保存運動

赤穂民報は忠臣蔵の本拠地赤穂市で発行されている有力な地方紙です。この記事は、浅野家の当主、相生市教育委員会を取材しています。

昨年(注2015年)12月には旧札座と土地を所有する子孫から寄贈の申し出があったが、審議会の経緯を踏まえ、「受けられない」と回答した。 

浅野家と相生市のやりとり、そして、私たちが保存運動を始めなければならなかった事情を読んでいただけたらと思います。

 

 

 


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若狭野陣屋(浅野陣屋) [旗本浅野家若狭野陣屋]

 
 
若狭野陣屋
 
旗本三千石浅野家の若狭野陣屋。後方の桜の辺りまでが陣屋跡です。
 
前方の建物は札座。江戸時代後期、藩札(札切手)の発行を含む所領統治の役所として建てられました。江戸時代後期、各地の旗本が家政改革を行いました。若狭野浅野家も1822年に藩札を発行するなど家政改革に取り組んでいます。
 
江戸時代、一万石を超える大名が200家、3000石~5000石の大身旗本が200家ありました。大名の城跡や陣屋跡は多くが保存されていますが、大身旗本の陣屋跡で残るものはそれほど多くはありません。
 
若狭野陣屋は敷地全体が残っているうえ、江戸時代後期の建築物(札座)が残っています。旗本陣屋の陣屋門は各地に残りやすいのですが、札奉行が政務をとった役所として使われた建築物は全国でこれ一つかも知れません。地味な建物ですが、歴史的に貴重なものです。
 
若狭野陣屋
  
札座の西に、かつての陣屋門に続く道があります。左手の広場は年貢を納める場所でした。
 
江戸時代、大身旗本は江戸に住み幕府で奉行職などに就きます。当主が所領に帰ることは稀で、在地の家臣が統治にあたりました。若狭野陣屋には、北部に御殿屋敷と家老屋敷があり、江戸時代後期に南部の札座が増設されています。

若狭野陣屋
 
陣屋門跡を通り、陣屋中心部に着きました。ここには二棟の建物がありました。明治維新で当主の浅野長発が土着したとき、御殿屋敷を改築し家老屋敷を建て替えています。
 
しかし、明治30年代に浅野家は陣屋を去ります。1942(S17)年、陣屋の北半分は浅野家から若狭野地区に寄付されました。御殿屋敷跡は広場になり、北辺に稲荷神社・須賀神社・薬師堂があります。中央は若狭野須賀神社で、昭和前期に陣屋内に移転してきました。薬師堂も移転してきたものです。
 
若狭野陣屋
 
左は稲荷神社。稲荷神社は浅野家の守護神で、江戸時代から若狭野陣屋のなかに祀られていました。中央は須賀神社と絵馬堂。右手に薬師堂があります。薬師堂は、和泉式部が小式部内侍を探して若狭野に来たときに残したという守本尊を祭っています。
 
若狭野陣屋の推移
 
旗本浅野家が成立した頃の陣屋は、紫の位置にあり、小規模なものでした。本家の赤穂藩が若狭野を含めて統治していましたから、陣屋は長屋がある程度でよかったのです。
 
1701年、浅野内匠頭の刃傷事件で浅野赤穂藩は断絶します。旗本浅野家は所領を統治するために陣屋を白四角の位置に移転し拡張しました。
 
19世紀になると家政改革が必要となり、藩札の発行など統治の強化を図ります。藩札の札元は大坂天王寺屋でした。陣屋南部、赤丸の場所に札座が建築され、札座の向かいに天王寺屋の屋敷が建てられたと推定します。
 
浅野赤穂藩が断絶したとき、赤穂藩江戸屋敷から旗本浅野家が受け継いだ文書群(浅野隼人家文書)が2006年に発見され、研究が進んでいます。左は江戸時代中期、右は明治初期の若狭野陣屋の絵図です。
 
水色の丸が御殿屋敷、赤色の丸が札座です。江戸時代後期から明治維新にかけて陣屋が拡張されたことがわかります。
  
若狭野陣屋

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残念な教員 学校教育の失敗学 [でもでも教師日記]

文化祭の古本市で買いました。
 
読み始めて「息苦しい」、読む気力が続きません。で、パラパラと斜めに目を通すと、「教員は受験勉強もできない」と教員養成学部出身者を切り捨て、かえす刀で「難関学部出身の人は、受験勉強ができる。受験勉強で好成績を残せたのであれば、指導もできる・・・しかし、彼らは教育への情熱が薄く、教育技術も低い傾向にある」。
 
ウーン、林純次さん、職場でどんな人間関係を作っているのでしょう。心配。それはさておき「受験勉強で好成績を残せたら、受験指導もできる」というロジックがわかりません。受験指導はそんなに簡単なものではありませんが、かといって、普通の大学出身でも研鑽しだいで東大受験生の指導ができます。しょせん、高校レベルですから。
 
なにより、受験するのは生徒なのです。優秀な生徒は教師の受験指導のレベルを軽々と超えていきます。
 
教育学部の例として、東北大、京都大の偏差値が掲載されているのは不可解ですね。こういう大学の教育学部は偏差値は高いし、そもそも教員養成のための教育学部ではありません。51頁に掲載されている、この表を見て、読み続けるのをやめてしまいました。
 
この本、他の人の読後感はどうなのだろう?と思ってググってみました。
 
ゆっくりゆっくりさんは「書かれていることは反論することは何もないです。しかし、私が感じた違和感は何なのか」。違和感を感じておられます。反論することは何もない、というほどの本ではないですよ。違和感に自信をもちましょう。
 
国語科教員の部屋さんは「言いたいことはわかるけれども、こんなに頑張っているのになんでわかってくれないの、という暑苦しい教員の典型です」。この人、文章、上手です。私と違って最後まで読み通したようなので、国語科教員の部屋さんのリンクを読んでください。私もこういうタッチの文章を書けたらなあと思います。

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荘園ツーリズム [皇室領矢野荘]

荘園は中世日本を構成する地域的まとまりです。平安時代に始まり、院政期に皇室や摂関家・大社寺が所領として拡大しました。
江戸時代の城下町に対し、鎌倉・室町時代を代表する遺跡が荘園で、水田をはじめ、神社や山城が時を超えて伝えられています。
 
荘園を楽しむには、少々知識が必要です。
千年前の日本に思いを馳せ、荘園ツーリズムに旅立ちましょう。 
 
東日本の荘園
陸奥国 骨寺村荘園 
岩手県一関市
中尊寺領 
鎌倉時代の景観が現存する遺跡
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上野国 新田荘 
群馬県太田市
源氏領 
中世武士団新田氏一族の根源地として成立した
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上総国 藻原荘 
千葉県茂原市
興福寺領 
奈良時代に成立した初期荘園、上総介藤原黒麻呂が開墾した
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越中国 般若野荘 
富山県砺波市・高岡市
徳大寺家領 
東大寺領井山・伊加流伎・石粟の3荘が衰退したあとに成立した
wikipedia
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能登国 若山荘 
石川県能登町
皇室領 
能登国珠洲(すず)郡の大半を占める巨大な中世荘園
​奥能登を歩く若山荘
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能登国 町野荘 
石川県能登町
領 
奥能登の中山間に位置し、能登国では若山荘に次ぐ大規模な荘園
​奥能登を歩く町野荘
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越前国 道守荘 
福井県足羽郡
東大寺領 
8世紀、東大寺の経済的基盤確立のため全国的に設定された初期荘園の一つ
 
 
近畿の荘園
和泉国 日根荘
大阪府泉佐野市
九条家領 
「日根荘大木の農村景観」が文化財保護法による重要文化的景観に選定
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摂津国 猪名荘 
兵庫県尼崎市
東大寺領 
8世に成立、神崎川河口の海岸部に堤防を築き、徐々に耕地を開発した
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播磨国 矢野荘 
兵庫県相生市
皇室領 
皇后美福門院が立券した領域型荘園、同じ領域が相生市として存続している
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播磨国 鵤荘 
兵庫県太子町
法隆寺領 
斑鳩寺は政所の業務と布教の拠点である。荘園境界を示す牓示石がある
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播磨国 大山荘 
兵庫県篠山市
東寺領 
空海の死後、綜芸種智院を売却した代金で土地を購入し、845年に成立した
wikipedia
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紀伊国 桛田荘 
和歌山県かつらぎ町
神護寺領 
鎌神護寺とかつらぎ町の宝来山神社に残る絵図が教科書に掲載される
wikipedia
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紀伊国 官省符荘
和歌山県橋本市・九度町
金剛峯寺領 
巨大な領域型荘園で、金剛峯寺が直務支配を確立し、高野山と一体化した
​荘園遺跡
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伊賀国 黒田荘 
三重県名張市
東大寺領 
奈良時代、孝謙天皇より東大寺に寄進された板蠅杣が拡張して荘園が成立
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若狭国 太良荘  
​    
福井県小浜市
東寺領 
東寺百合文書に多くの史料が残る
中世史における代表的な荘園の一つ
​太良荘
 
- - - - - - - - - -
 
 
西日本の荘園
伯耆国 東郷荘 
鳥取県湯梨浜町
松尾大社領 
下地中分の絵図は荘園の盛衰を示すものとしてたびたび教科書に掲載される
 
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備中国 新見荘 
岡山県新見市
最勝光院領→東寺領 
たまがき書状が国宝に指定された
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備後国 大田荘 
広島県世羅郡
高野山領 
寄進地系荘園から始まり、一円支配の中世荘園に成長、尾道が積み出し港
wikipedia
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伊予国 弓削島荘 
愛媛県上島町
皇室領 
「塩の荘園」として著名。1981年、皇太子が荘園研究のために島を訪れた
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土佐国 幡多荘 
高知県四万十市・土佐清水市
一条家領 
13世紀に成立、1468年、前関白一条教房が下向して中村に居館を設けた
wikipedia
​四万十市観光情報
 
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豊前国 田染荘
大分県豊後高田市
宇佐神宮領 
「田染荘小崎の農村景観」が国の重要文化的景観として選定されている
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肥後国 鹿子木荘 
熊本県熊本市
皇室領 
代表的な寄進地系荘園として教科書に多く取り上げられてきた
東寺百合文書に資料が残る
wikipedia
​​
- - - - - - - - - -
日向国 島津荘 
宮崎県都城市
近衛家領 
日向・大隅・薩摩の三ヶ国にまたがる日本最大の荘園
wikipedia

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教科書が説明する荘園 [皇室領矢野荘]

高校日本史の教科書では、荘園をどのように説明しているのでしょうか。手近にあった四社六冊の教科書を読んで、適当にまとめてみました。
 
 ​
奈良時代の初期荘園
 ​
政府は人口増加による口分田の不足を補うため、743年、墾田永年私財法を発し、開発した田地の私有を保障した。東大寺などの大寺院は、広大な原野を独占し、国司や郡司の協力のもとに、付近の農民や浮浪人らを使用して原野の開墾を行った。これを初期荘園という。
 
8~9世紀に生まれた初期荘園は、律令国家の地方支配機構である国衙制に依存して経営されていたので、その多くが10世紀までに衰退していった。
​ 
 
平安時代の寄進地系荘園
  
班田収授が行われなくなると、口分田は国司のもとで国衙が管理するようになった。これを国衙領という。10世紀後半、国衙は田地を拡大するため、開発領主に臨時雑役免除などの便宜をはかった。開発領主の多くは国衙の在庁官人になったが、一部は所領を中央の権力者(領家・本家)に寄進して荘官となった。
 
こうした荘園は寄進地系荘園と呼ばれ、11世紀後半に各地に広がった。荘園は課税対象であるが、寄進地系荘園のなかから権力者の権威を背景に税の免除(不輸)を承認してもらう荘園が現れてくる。
  
 
後三条天皇の荘園整理令​
​ 
平安時代の国司は中級貴族が任命される。中級貴族は国司となって財をなすことを望んでいた。国司は税率を決定する権限を持ち、徴税請負額を政府に納める義務を負った。国司の収入は実際の徴税額から請負額を差し引いたものになる。
 
不輸の荘園が増えると、上級貴族や大社寺の収入が増えて、国司(中級貴族)の収入が減少する。1069年、国司の支持を受けた後三条天皇は荘園整理令を出し、基準にあわない荘園を停止した。摂関家や大社寺の荘園も例外ではなく、整理令は成果をあげた。
 
荘園整理によって、国司の支配する公領と、貴族や大社寺が支配する荘園の区別が明確になった。この時点では、公領が多くの部分を占めていた。一方、整理令で基準が明示された結果、整理されなかった荘園の法的根拠は強化された。
 ​
 
鳥羽上皇の方針転換
  
白河上皇は国司を支持勢力に取り込んで院政を始め、荘園整理の方針を受け継いだ。ところが、鳥羽上皇は荘園を積極的に認める方針に転換する。天皇家には荘園の寄進が集中し、摂関家や大寺院への寄進も増加した。不輸・不入の権を持つ荘園が増加し、荘園の独立性が強まった。
 
鳥羽上皇が集めた荘園群(八条院領)は大覚寺統に受け継がれ、後白河上皇が集めた荘園群(長講堂領)は持明院統に受け継がれた。
​ 
 
領域型荘園
 
もう少し踏み込んだ記述をしている教科書では「領域型荘園」という言葉が使われている。
 
白河天皇は荘園整理政策を継承したが、上皇となって院政を始めると、次々と寺院を建立し、その運営費用をまかなうために荘園を新設した。院と関係の深い貴族から所領が寄進され、国司の協力も得て広大な領域の荘園(領域型荘園)が立荘された。
 
12世紀前半の鳥羽院政期にかけて、院・摂関家・有力寺社の領域型荘園が、院権力の主導のもとにつくられ、中世荘園が確立した。領域型荘園では、荘民は租税をすべて荘園領主に納めるようになった。
 
公領でも開発領主の所領化が進み、全国の土地は同じような性格をもった荘園と公領に編成された。荘園公領制は中世の土地制度の基本となった。
 ​
教師用資料として配布された鎌倉佐保先生の解説です
 
 
中世は荘園公領制の時代
 ​
現在の教科書は、後三条天皇の荘園整理によって荘園が合法化され、鳥羽上皇の荘園拡張政策の結果、荘園公領制が成立して中世が始まると説く。そして、院政・鎌倉幕府・南北朝・室町幕府を中世でひとまとまりにする。
 
荘園は応仁の乱頃から解体が始まり、戦国時代に実質的に消滅、太閤検地で名実ともに消滅する。そして、検地による土地制度の時代=近世(豊臣政権から江戸時代)が幕を開ける。

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官民が協働した取組ができれば [浅野陣屋2016]

2016年8月の相生市の議会だよりに、浅野陣屋の写真が掲載されています。それから、まもなく一年ですが、つらつら読み直してみると
  
宮艸議員の質問に対する答弁は
「地域や所有者、行政の枠組みだけでは限界があり」
「将来的には広く官民が協働した取組みが出来ればよいと考えています」
となっています。
 
エーッ!!!
所有者がその気になって、兵庫県の古民家再生支援事業の再生提案まで準備したのに、「そういう制度が迷惑なんです」と言ったのはどなたでしたっけ
 
将来的には・・・・ 
= 今は(しない)・・・・
官民が協働した取り組み・・・・
= 民はやる気だけれど官が・・
ということですかねえ?
 
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歴史総合新設より日本史世界史必修に [でもでも教師日記]

高校に歴史総合という科目の新設が予定されている。
 
現在、世界史が必修で日本史・地理が選択になっている。日本史を学ばなくても卒業できるのはおかしいという意見があり、歴史総合で日本史と世界史をミックスして学び、その後、日本史・世界史・地理を選択させるという発想らしい。
 
高校の教員からみると「またか」とうんざりさせられる光景である。
 
1960年代、地理・日本史・世界史はすべて必修であった。ところが、現代社会で入門編を学んでから選択させるという方針で現代社会が導入され、日本史・世界史・地理は選択になった。
 
すると、世界史選択者が減ってしまい、「国際時代を迎えて世界史を学ばないのはおかしい」と言って世界史を必修にした。世界史を必修にした結果、地理・日本史のどちらかは選択しないことになる。日本史・世界史の両方を必修にすると時間が足らないので歴史総合を新設しようというのだろう。
 
こういう、ハイブリッドタイプで単位の少ない科目が上手くいくことはない。40年前に導入された現代社会は今に至るもまともな科目扱いされておらず、高校現場に現代社会の専門家はいない。
 
本来、日本史・世界史・地理は必修だったのだから、3科目とも必修に戻せば良さそうなものだが、それはできない事情がある。根本的な原因は、授業時間数の減少である。
 
50年前、一週間は34コマ、3年間で102コマであった。ところが、週5日制で週に4コマ減って30コマ、3年間で90コマになった。さらに、情報で2コマ、総合学習で3コマ消費するので、85コマになる。
 
総コマ数が減っているので、社会科に割り当てられるコマ数が減る。減ったコマから現代社会に2コマを割く。だから、50年前には実現できていた日本史・世界史・地理の必修が不可能になった。
 
こうした根本原因から目をそむけて、社会科のなかをいじりまわす。愚かなことである。今でも中学校の社会科の歴史が日本史中心になっていて、世界史の知識がない生徒たちが高校に入学してくる。この生徒たちに「歴史総合?」。何を考えているのやら。
 
この原因は、大学の先生たちが高校社会科をいじくりまわすところにある。日本史業界・世界史業界・地理業界の先生たちの勢力争いである。
 
大学の先生は、歴史の一分野を深く研究しているが、世界史全般・日本史全般を研究しているわけではない。ましてや、日本史も世界史も地理も含む社会科を担当したこともない。彼らは社会科の専門家ではないのである。専門家でない人たちがいじくりまわすので、いじればいじるほど現場は混乱する。これが、高校社会科の現状。
 
そうそう、かつての社会科は地歴科・公民科に分割されている。一年の現代社会は公民科、なので地歴科の免許しかない先生は一年生の担任ができない。社会科を地歴科・公民科に分割した人たちが高校現場に無知であることが、この一事に露呈している。
 
それでは、私が解決案(日本史・世界史・地理すべて必修)を示す。生徒の週5日制と教育労働者の週休2日制には別個の問題である。そこで、教師の定数を2割増やして土曜も6時間授業をする(スーパーが交代勤務で年中無休にしているのと同じ原理)。次に、高校の校舎をエアコン完備にして夏休みを短縮する。これで、授業時数が確保できたので、日本史・世界史・地理をすべて必修にする。現代社会は廃止する。歴史総合は作らない。
 
1960年代の日本史・世界史・地理すべて必修時代を経験した人たちは、まもなく教育現場を去る。
 
この半世紀、社会科は授業時数の減少と選択科目やハイブリッド科目の増加でぐちゃぐちゃになってしまった。社会科を日本史・世界史・地理・倫社・政経の必修というシンプルなスタイルに戻して安定させる。そのうえで、高校の先生と大学の先生が協働して各科目の内容を熟成する。
 
どの科目を必修にするのか?という迷いは捨てなければならない。

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